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【下積時代】毎日泣いてるリーダー

先日、大学時代の話を書きました。


さて、大学時代、私は合唱部で4年間を過ごしたのですが、この合唱部が一癖も二癖もあり、でもそれ故に私を何回りも大きくさせてくれました。今日はそんなお話です。


1.リーダーになりたい

前提として、私が属していた合唱部は、院生などを除く1〜4回生が所属していました。そして、その中の2・3回生の選挙で選ばれた者が、幹事長や指揮者、各パートのパートリーダーや運営スタッフを担うことになっていました。

ご飯や遊びの勧誘で合唱部に入った私は、ト音記号もヘ音記号も読めない、何ならその記号の使い分けさえも知らない1回生でしたが、合唱の魅力に早くに気付き、積極的に自主練をする部員になりました。また、部内で一位二位を争うほど発声も音程も優れていた私の2つ上(私が1回生の時の3回生)の先輩が、当時テノールのパートリーダーをされていたのですが、その方も高校までは野球一筋だったそうで合唱は初心者からのスタートだったらしく、話を聞いたり歌声を聴いたりすればするほど、その先輩への憧れが増していきました。その先輩は、私が入部した時点で3回生なので、うちの部の規定的にリーダーはその年限りで終わりとなります。

1回生の私は、安易に自分もその先輩のように初心者からの成り上がりでピカピカのパートリーダーになってやろうと思いました。4月の時点で楽譜も読めなかった私は、8月くらいになると我流でピアノを触るようになり、ボイストレーニングも積極的に受けるなど研鑽を積みました。その甲斐あってか、10年前の1月の部内選挙でテノールのパートリーダーに信任してもらうことができ、2回生から晴れてテノールパートリーダーを務めることができることとなりました。

うちの合唱部は、2月より新体制での運営が始まります。まさに、10年前の今頃、パートリーダーとしての歩みが始まったのですが、ここからが地獄の連続でした。

2.パートリーダーのお仕事

パートリーダーのお仕事を簡単にですがご紹介します。といっても文字にすると本当に単純で、

①パート練習の進行 
②全体発声の進行(当番制)

以上です。

①1日フルの練習日の場合、大抵は午前中にソプラノ・アルト・テノール・バスの4パート、各パートに散ってパート練習を行い、午後に全員で合わせの練習をします。その午前のパート練習を取り仕切るのがパートリーダーの仕事なのです。

具体的には、10人前後のパートメンバーの前に立って、パートのメロディーをキーボードで弾きながら、かつ、歌って手本を示します。キーボードと歌で、パートのメンバーに音を教え、歌い方を教えるわけです。そして、自分の手本の後にパートのみんなにも歌ってもらい、それに対してフィードバックや指導、アドバイスをするのです。

②午後の全パート合わせの練習の際は、まず冒頭に30分間の発声練習をします。その発声練習の進行を、4人のパートリーダーで交代しながらシフトを回します。だから、4回に1回程度、自分の番が回ってきます。

自分が進行役の際は、50〜60人の全パートの部員の前に立ち、ピアノを弾きながら発声指導をします。

もっと鼻腔を響かして
もっと息を回して
響きが遅れていってます、もっとお腹を使って

などと助言を部員に送りながら、ピアノを弾いて練習の進行にあたります。
だいたい、発声の場合は、最後に部員のモチベーションが上がるような小話をして締めくくります。

歌・ピアノ・話術が求められる仕事です。

3.思ってた緊張感と違う

このような仕事を、10年前の今頃、2回生に上がる間近から私はしていたわけですが、本当にポンコツパートリーダーでした。まず、キーボードが全然弾けないのです。

私は、同じ1回生の中ではキーボードやピアノが弾ける方になっていたつもりでした。その感覚は間違っていなかったと今でも思います。ただし、パートリーダーに求められるレベルには全く届いていませんでした。まず、パート練習で10人程度のパートの仲間の前で弾くこともできませんでした。部室で1人で黙々と弾くことはできるようになっていても、10人の歌声のもとで、正しいテンポとリズムをキープして弾くことが全くできませんでした。キーボードで正しい音とリズムに導くのが仕事なのに、歌い間違えるような人がいると、リーダーの私がそちらの誤った音やリズムに引きずられてしまいました。また、単純に緊張もあってか弾き間違いもよくしました。要するに、正しく弾くことができませんでした。

テノールの先輩方からは厳しく指導されました。

お前は頼る存在じゃなくて頼られる存在だぞ
お前が正しく弾けるようになるまで歌うのをやめる

などと言われました。

10人前後のパート練習でこの有様なので、50〜60人もいる発声練習など、役立たずも役立たずでした。正しく弾くこともできないし、自分の技術がそのような感じなので歌い方のアドバイスなどできるわけがありません。私がアドバイスされる側です。

50〜60人の前に立つと、容赦ない野次が飛んできました。

あーーー困ってる困ってる
もうこんな練習意味ないからスタバ行こ
ちゃんと準備してきたんか

などなど、皮肉っぽくたくさん言われました。

私は人前に立つ、ましてや人に何かを指導するということを甘く考えていたことに気付きました。

1人で自分のためにやる練習とは訳が違うのです。

この頃(10年前の今頃)は、毎晩自分が不甲斐なくて泣いていました。本当に泣いていました。練習中も堪えきれなくて、休憩の度にトイレに走って泣いていたこともありました。教壇に立ってからも、いつも昨日のことのように思い出します。

4.春合宿で開花

2・3月は大学生にとっては春休みです。そこで、この期間こそ練習すべきだということで、3月末には春合宿がありました。合宿は夏と春と年に2回あるのですが、これがまた過酷です。

期間は5泊6日です。そして、問題は1日のスケジュールです。

朝7:00起床、7:30朝食、8:30ランニング、9:30〜12:00午前練習、12:00〜13:30昼休憩、13:30〜18:00午後練習、18:00〜19:30夕飯、19:30〜24:00夜練習、0:00〜2:00夜間練習、2:00〜3:00会議(役員) 3:00〜自主練

といういつ寝るのかよく分からないスケジュールでした。一日中、喉が枯れるくらい、いや枯れたとしても歌い続けるのです。

ポンコツパートリーダーとして不甲斐ない姿しか見せてこなかった私は、ここで取り返さねばならないと思いました。というより、確固たる実力を付けなければ今後やっていけないと感じました。

午前3時に会議が終わった後も、毎晩毎晩、練習室に最後の一人になるまで篭り、ピアノと歌を磨き続けました。午前5時より早くに寝た日はなかったと思います。

この古き体育会系みたいな練習の仕方は、私も時代錯誤というか、果たしてそれが有効なのかと懐疑的にはなりますが、当時の私はこの過酷な練習でいろいろと開花させました。

1日に18時間は音楽と触れることで、片手でメロディーラインを弾くことも危うかった自分が、簡単な伴奏であれば両手で弾けるようになったのです。

合宿が終わる時、やっと合宿が終わるという安堵感と一定の結果を残せた達成感で感傷的になり、涙が止まりませんでした。

5.優しき先輩

3のところで、先輩方から野次を受けたと書いたので、ひどい先輩だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは誤解です。

私は当時の先輩方がみんな大好きです。「お前が正しく弾けるようになるまで歌うことをやめる」と言った先輩とは、今でも年に数回ご飯に行きます。

ここに書けないくらい辛辣なことも言われましたし、きつい目にも遭いましたが、それでもこんなポンコツな私を見捨てずに、なんとかしてやろうと叱咤してくれていたことに感謝しています。

そして、当時から諸先輩方が厳しいのは練習場に限った話でした。どれだけ罵倒されても、ご飯の時間になると皆さん優しいのです。テノールは、昼ごはんはテノールみんなでいただきますをして、テノールみんなでご馳走様をするというルールがありました。私がどれだけテノールのパート練習で失敗して叱られても、ご飯はみんな仲良く和気あいあいと食べるのです。
そんな環境で私はたくさんの愛情をいただきながら逞しくなれました。

自慢みたいになるかもしれませんが、3・4回生では、私は一人のパートリーダーから団全体を取り仕切る委員長になりました。また、教員になってからは、誰よりも堂々と教壇に立っていたつもりです。

その礎は、このポンコツパートリーダーにあると思います。

長文、読んでいただき、ありがとうございました!

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