見出し画像

発達障がいになるまで①

今までの投稿の中で、あるいはnoteのプロフィールの中で10歳で自閉症スペクトラム(発達障がい)と診断されたと書いてきました。今日からは、なぜ私が発達障がいと診断されたのか、そもそもなぜ小児神経科を受診することになったのかを書きたいと思います。

結論からいうと、私は小学校4年生で登校拒否を起こし、その登校しぶりの様子を見た養護教諭の先生の助言で小児神経科を訪れました。しかしながら、小学校3年生の時の私は無遅刻無欠席の皆勤賞でした。なぜ一年間で登校拒否に陥ったのか、まずはそこをみていきたいと思います。

小学校3年生、それは人生初で唯一の皆勤賞を受賞した年でした。皆勤賞をいただいた翌月、 4 年生になった私はクラス替えとなり新たな担任の先生、新たなクラスメイトとともに一年をスタートさせました。この時のクラスでなければ今自分はnoteを書いていないかもしれないと思うほど、このクラス替えは運命の分かれ道でした。

新しい担任の先生は、その年から私の学校に赴任してきたという若い女性の先生でした。
とにかく元気いっぱいという感じの先生で、初回の学級会からクラスは大いに盛り上がり
ました。 しかし、私は、 外見上ははしゃいでいるようでも内面では不安に襲われていました。なぜなら、クラスに親しく話せる人があまりいなかったからです。当時、私の通っていた小学校は西日本一のマンモス校と呼ばれるほど生徒数が多く、一学年が 250 人の 7 クラス体制でした。その結果、年度のクラス替えによって二年連続で同じクラスとなる人は 5 人程度しかおらず、小学校4 年目にして初めて同じクラスになった、4 年目で初めて顔と名前を認識したということも珍しくない状態でした。 しかも、担任の先生も新しく着任した先生で「初めまして」となると、誰と話したらよいのか、誰と打ち解ければ良いのか、誰を頼れば良いのか本当に不安になりました。
4 月の自分の席が確定して、隣近所との4 人班も定まりましたが、その中に話したことの
ある人はいませんでした。 同じ町内に住んでいる同級生にも関わらず、まるで私たちは転校生のような関係でした。春は緊張が付きものですが、4 年生の春は息苦しさを覚えるほど、心身が固まりました。クラスで緊張していると大きな問題に直面しました。’給食が食べられない’という問題です。もともと私は給食や共食が苦手なのです。皆勤賞だった小学校 3 年生の時は、給食も克服したかのような感覚でしたが、それは私の心身の問題だけでなくクラスの関係が良好だったからということが大きな要因であり、クラス替えによって再びみんなと給食を食べられない子に戻ってしまいました。同じ学校の同級生とはいえそれまで話した経験がないという意味では初対面のようなものであり、身体が硬直する感覚を覚え、空腹を感じないどころか常に乗り物酔いのような感覚を覚えるようになりました。そのような心身では完食することができません。

食が進まずに困っていた私には逆風なことに、新担任の先生は他校からやって来たこともあってか給食のルールも他の先生方と異なりました。他の先生より厳しかったのです。 体調不良でもない限り、原則食べ残しは禁止でした。当時の私は、圧迫感のようなものにやられてしまい気分も優れず、ある意味の体調不良だったのですが、別に風邪をひいているわけでもなくお腹を壊しているわけでもなかったので、体調不良を申し出るには値しませんでした。今思えば、メンタルの問題ならばそれはそれで一種の体調不良の状態であったのだと思いますが、 4 年生の私は自分の調子をありのままに把握することもそれを先生に説明することもできませんでした。記述が長くなりましたが、要は完食するしかなかったのです。

とはいっても、食べられない分量は食べられません。かといってお残しもできません。そ
して、クラスの仲間や同じ班のメンバーとはまだ気心も知れていないので悩みを告白する
こともできません。困り果てた結果、私は処分できる食料からこっそり処分していくことにしました。とても罰当たりな行為ですが、その時間を乗り切るにはそれしかないと思いました。 汁物系は児童個人では処分の方法がありません。だから、優先的に頑張って食べました。おかずを頑張って食すと、もうコッペパンを食べる元気はありません。そこで、班の仲間や先生の視線が外れた隙を狙って、コッペパンを机の中にしまい込み、昼休みの人気が少ない時を見計らってランドセルの中に入れて家に持ち帰りました。当然ですが、ランドセルに入れたパンは帰宅してもなおランドセルの中に存在しています。このことがまた悩みの種になりました。4 年生ながらに、道徳的に考えて、親に見つからないようにパンを捨てるということはできませんでした。それでは罰が当たると思っていました。ただ、親にパンが見つかるともちろん叱られます。実は、私が 3 年生の年まではパンの食べ残しは持ち帰っても良かったのですが、この年から食中毒防止の観点より持ち帰り禁止となったのでした。パンを持ち帰る、すなわちルールを破ったということを母に繰り返し𠮟られました。 ただ𠮟られても𠮟られても、 私にできる合理的な解決策がありませんでした。給食を食べやすい環境をつくることも、頑張って完食することも、先生や親や大人に自分の状態を説得する力もなかったのです。

おそらく、コソコソとパンを隠す私の行動が周囲の人の視線を買うきっかとなったのでしょう。半分転校生のような関係の同じ班員にマークされ、先生に報告が飛び、ある日私は現行犯で差し押さえられました。その後、教室で怒鳴られ、なぜそのようなことをしたのかと問いただされましたが私には答える元気がありませんでした。そもそも、4 年生の自分には言語化する力もない上に、この大人に何を説明してもどうせ分かってもらえないという気持ちが先走りました。私の心は閉ざされました。その時までも心を閉ざした瞬間は何度もあったのでしょうが、この時、人生で初めてスーっと周りの人から自分が遠のいていく感覚、誰にも何も分かってもらえないという諦めをはっきりと自覚しました。どうせ分かってもらえない相手なのだから更なる誤解も生まないように何も話さないでおこうと口を閉ざしました。

次の日から学校には行かなくなりました。学校から連絡を受けた母親は、それまでの叱責
から大きく変わって、優しく包み込むような表情と声で、でも困り果てたような様相で事情を聞かれましたが、私は泣くことも怒ることもなくただ黙って、青ざめた真顔で顔を固めてうつむいていました。今でも、斜め下のダイニングテーブルが見えています。

※続く

いいなと思ったら応援しよう!