元事務次官実子殺害事件公判傍聴記・2020年10月20日(被告人・熊澤英昭)
2020年10月20日
東京高裁第11刑事部
102号法廷
事件番号・令和2年(う)第201号
罪名・殺人
被告人・熊澤英昭
裁判長・三浦透
右陪席裁判官・佐々木直人
左陪席裁判官・平城文啓
書記官・石川俊隆
被告人である熊澤英昭は、2019年6月1日、長期間にわたり定職につかずに引きこもり、自分や妻にDVを行う息子(44歳)を殺害した。熊澤が元農水省事務次官であったことから、この事件は大々的に報道された。また、「上級国民」などと、世間の指弾を浴びることにもなった。一審は懲役8年の求刑に対し、懲役6年であった。被告側は控訴し、その控訴審初公判が2020年10月20日に行われた。
26枚の傍聴券に対し、50人以上の希望者が並び、抽選となった。
入廷前、荷物預かり、金属探知機によるチェックが行われた。
傍聴人たちが入廷を許された時、すでに熊澤英昭は被告席に座っていた。保釈中であるため、刑務官は両脇を固めていない。あまりに自然な感じで座っていたため、一瞬、弁護人の一人かと思ってしまった。しかし、よく見れば、マスクで顔の大半が隠れているものの、報道で見慣れた熊澤の顔であった。
熊澤は、白髪交じりの髪を七三分けになでつけた、眼鏡をかけた老人だった。紺のネクタイに黒いスーツという出で立ちである。色白であるが、いくらか老人斑が目立つ。白いマスクが、顔のほとんどを覆っており、表情はよくわからない。前を向き、膝で手を組んで、被告席に座っていた。
弁護人は七人と、非常に多くついているようだった。フェイスシールドをつけた、眼鏡をかけた白髪の老人が、熊澤の後ろに座っていた。他は、眼鏡をかけ髪をセンター分けにした中年男性、短髪の男性、白髪交じりの初老の男性、短髪の青年、髪の短い青年、などという顔ぶれである。全員、白いマスクをしている。
検察官は、髪を七三分けにした、眼鏡をかけた四角い顔の中年男性一人だけだった。被告側の姿勢とは対照的である。
裁判長は、黒髪を短髪にした中年男性。左陪席裁判官は、眼鏡をかけた短髪を七三分けにした中年男性。右陪席裁判官は、眼鏡をかけた短髪の中年男性。いずれもマスクを着けていた。
記者席は6つほど指定されており、すべて埋まっていた。不使用席は、一列の四席のうち、2~3席であり、ほとんどが不使用席である。非常にもったいないとしか思えなかった。ソーシャルディスタンスに気を使うにしても、もう少し使用席を増やせるのではないか。
開廷前、裁判所職員が四人、柵の前に並んでいたが、開廷とともに、その場所から移動する。
こうして、熊澤英昭の控訴審初公判は、11時より開廷した。
裁判長『それでは、時間ですので、開廷します』
熊澤は、裁判長の方を向いた。
裁判長『立って』
熊澤は立ち、証言台の前まで移動する。
裁判長『どうぞ座ってください』
被告人『はい』
熊澤は裁判長の方に一礼し、証言台の椅子に座った。
裁判長『名前は何といいますか』
被告人『熊澤英昭です』
裁判長『生年月日は』
被告人『昭和18年4月21日です』
裁判長『本籍は』
被告人『岐阜県可児市(略)です』
裁判長『住所は』
被告人『東京都練馬区(略)』
裁判長『職業は』
被告人『無職です』
裁判長『それでは、被告人に対する殺人等控訴審の審理を始めます。元居た席に戻って座ってください』
熊澤は、小さめだが、落ち着いた声で、人定質問に答えていた。弁護人の方に軽く会釈し、被告席へと座った。
弁護人は、5月11日付で控訴趣意書、7月30日付で控訴趣意補充書を出している。これを陳述する。法令適用の誤りと、控訴審において職権発動を求める趣旨とのこと。
要旨の陳述をすることとなり、年若い弁護士の一人が立ち上がり、陳述を行う。
<控訴趣意>
我々は、控訴趣意書、控訴趣意補充書を提出しておりますが、ここで要旨を述べます。
我々が主張している控訴趣意は、事実誤認、量刑不当、そして、当裁判所に職権判断を求める法令適用の誤りです。
各控訴趣意の内容や、なぜ裁判所に職権判断を求めているかは、控訴趣意書に説明しておりますから、当裁判所においては、控訴趣意書を熟読して、我々の求める判断を速やかに下されますようお願いいたします。
しかし、控訴趣意書もそれなりの分量となっているので、我々の真意、意図を的確に理解してもらうために、ポイントとなる事項を口頭で述べることにいたします。
そして、われわれが控訴趣意として現判決の破棄を求める根底にあるのは、原判決が、関係事実を誤認し、真の法的処理を適正な条件をしなかったことにあります。
被告人は、事実認定に誤りがあっても、判決を下された以上、原審の実刑判決に服して、自らの罪を償う意向もあったが、控訴趣意にある通り、原判決の事実認定が大きな誤りであること、それを正した上で、適切な内容の判決に服することこそが、償うことにつながると我々からお伝えし、控訴することとなった。
そのため、ここではそうした観点から、4点のポイントに絞って説明いたします。
控訴趣意書を大幅に要約するので、文言が控訴趣意書と完全に一致しているわけではないが、趣旨は同じであり、新たな主張をするわけではない。
被告人は、原審において、被害者が、事件の六日前の暴行の際と同様の表情で、殺すぞと言っていたため、本当に殺されると直感し、恐怖のため包丁をとりに行き、被害者ともみあいになる中で何度も刺した、と供述した。
これに対して原判決は、もっぱら恐怖心から台所まで移動して距離をとった被告人が、あえて恐怖の対象である被害者の元に戻るとは理由はないこと、および、被告人の負傷状況から、被害者に前から向かっていき、もみ合いになる中で被害者の抵抗を押し切って本件犯行を行うのは相当困難であると考えられる、として、被告人の供述の信用性を否定し、被告人は被害者の抵抗を受ける以前に一方的に攻撃を加えた、と認定しました。しかし、これは明らかに誤った認定です。
被告人は、このままでは殺されると思い、護身用に包丁をとるために台所に行ったのであり、逃げるために台所に行ったわけではない。被告人は、事件の六日前の暴行の時に逃げても追いかけられて捕まったことがあり、逃げても無駄だと思っていた。原判決が、もっぱら恐怖心から台所まで移動して包丁をとった、というのは、そもそも認定を誤っています。
被告人が台所に包丁をとりに行ったことが被害者に分かっていれば、被告人の言う方法では犯行は困難だったかもしれない。しかし、被告人が台所の包丁をとりに行き、被害者を刺すまで、ほんの数秒間の短い間でした。包丁をとりに行ったことは、被害者の立っていた位置からはよく見えなかった。被害者は、被告人から包丁で刺されることを全く予想していなかった。被告人が包丁を持っていることに気づいておらず、刺される中で身を守ることができなかったと考えられます。
被告人は、最初の二回の攻撃で、被害者の首と胸を刺し、首への攻撃は深く刺さったと思うと述べており、首への攻撃が致命傷になったと考えられます。遺体の解剖結果からは、首が致命傷になったと判明している。被告人に刺されたことに気付いた時には、被害者はすでに首の致命傷を負っており、反撃する力はかなり弱くなっていたと考えられる。さらに現場にあった血だまりや、被害者が倒れていた状況、被害者の負傷状況からは、被害者と被告人がもみ合ったと考えるのが自然です。したがって、行為態様に対する被告人の供述は合理的で信用でき、原判決が、被害者に前から向かっていき、もみ合いになる中で被害者の抵抗を押し切ったうえで、本件犯行を遂げるのは相当困難である、としたことは明らかに誤っています。
なお、原審の公判前整理手続きでは、検察官は行為態様について被告人の供述と全く異なる主張を予定しているとは明らかにせず、行為態様は争点としてなかった。十分な反論反証を準備することができず、防御を尽くすことなく、検察官の主張にのっとった判決となってしまった。控訴審においては、その点を十分にご検討いただき、原審の不意打ち認定を正していただくことが必要と考えます。
原判決は、インターネットの検索履歴や、妻あての手紙から、被告人はあらかじめ被害者を殺すことを考えていたと考えていたと認定しているが、これも明らかに誤っています。
被告人の妻あての手紙は、被告人が被害者を殺して自分も死ぬ、という心中をほのめかすような文面となっておりますが、被告人はこの手紙を書いた記憶がなく、事件の時まで被害者を殺害しようなどと考えたことは一度もないと述べています。原審は被告人のこの供述も信用しませんでした。つまり、被告人が都合の悪い手紙について、記憶にないと、嘘をついているということです。このことが、先ほど述べた行為態様に関しても、被告人の供述が信用されなかった大きな原因になったと我々は考えております。
しかし、事件の6日前、被害者はすさまじい表情で、「殺してやる」と叫びながら、必死で逃げる被告人を捕まえては、何度も殴る、ける、髪の毛をつかんでモノや床に頭をたたきつける、といった執拗で壮絶な暴行を被告人に加えました。被告人はこの時、本当に殺されると思ったと述べています。
アスペルガー症候群を抱える被害者の面倒を、ずっと苦労しながら見てきたにもかかわらず、被害者から殺されかけたというこの経験は、被告人に深刻な恐怖と精神的苦痛を与えました。その結果、この暴行の後の被告人は、急性ストレス反応を発症していたと考えられ、心中をほのめかすような手紙を書いたこと、また、その手紙を書いた記憶がないことは、急性ストレス反応の困惑や乖離の症状として精神医学的にも十分了解可能です。したがって、原判決が被告人の供述を信用せずに、この手紙を被告人の殺意形成と関連づけたことは、明らかに誤っています。なお、この点について弁護人は、原判決の後に、精神科医に対し被告人の診断を依頼しました。控訴審では、被告人の心理検査などを行い、被告人が急性ストレス反応を発症していたと診断した、この精神科医の診断意見書の取り調べと、証人尋問を請求しておりますので、ぜひとも採用いただきたいと考えております。
被告人は、インターネットで殺人罪等と検索したことについても記憶にないというが、急性ストレス反応の困惑や乖離の症状として説明可能であることは、先ほどの手紙と同様です。また、被告人は、検索した記憶はないものの、ちょうど検索した日の直前に川崎で殺傷事件があったため、被害者が同じような事件を起こしたらどうなるかと考えて、検索した可能性があると述べています。原判決は、川崎事件をきっかけに、被害者が自分を殺すと思わなかったという被告人の供述から、その可能性を否定し、この検索も、被告人が事前に被害者の殺害を考えていた証拠であるとしました。しかし、被害者が川崎事件のような無差別殺傷事件を起こしたらどうなるかと考えることと、父親である自分を殺すとは思わなかったこととは、全く矛盾しておらず、この点でも原判決の誤りは明らかです。
また、被告人は事件の6日前の暴行で傷んだ体を引きずりながら、被害者が住んでいた目黒の家のごみを片付けるなどして、被害者を目黒の家に戻そうとしていますし、事件の日の朝にはクリニックで持病の糖尿病の薬を受領しています。仮に被害者を殺すことをあらかじめ考えていたのならば、明らかに不自然な行動です。さらに、被告人があらかじめ被害者を殺すことを考えていたとすれば、被害者の睡眠中に襲うなど、より殺害が容易な機会はいくらでもありました。これらのことからしても、被告人は事件の直前に、被害者からすさまじい形相で「殺すぞ」と言われるまでは、被害者の殺害を意図したことはなく、手紙やインターネットの検索履歴から、あらかじめ被害者を殺すことを考えていたと認定した原判決は、明らかに誤っています。
原判決は、被告人は主治医や警察に相談することが可能で、現実的な対処法があったのに、これらをすることなく、同居してわずか一週間ほどで、被害者の殺害を決意してこれを実行しており、本件犯行に至る経緯には短絡的な面がある、としています。しかし、先ほど述べたとおり、被告人は、被害者の殺害をはじめから考えていたわけではなく、6日前の暴行により被害者に極度の恐怖心を抱いていたところに、被害者の殺害をあらかじめ考えていたわけではなく、すさまじい形相で「殺すぞ」と言われ、本当に殺されると思って殺害してしまったわけですから、それがたまたま被害者と同居して一週間ほどであったことを持って、短絡的と評価できるものではないことは明らかです。
また、原判決は、主治医や警察に相談することが可能であったのにしなかったとして、被告人を非難しています。しかし、被告人は事件までの間、妻は精神を病み、娘は自殺するという状況のもとで、40年以上にわたり、被害者を献身的に支えてきました。その間、被害者は、被告人や妻に暴力を振るったり、職場の上司を刺そうと考えたり、入院中に看護師の襟首をつかんだりという粗暴行為に及んだりと、様々な問題を起こしてきましたが、被告人は警察に相談せずに、一人で何とか対処してきました。被告人は、仮に警察に相談して、被害者が逮捕されたとしても、警察から出てきた後に、戻ってくるのは被告人の所しかなく、かえって警察に相談したために、被害者との親子関係が決定的に悪化することを恐れていました。原判決においても、警察等に相談することによって問題が解決するという、現実的で有効な対処方法が示されているわけではなく、原判決の批判は、建前論、結果論、楽観的な組織信頼論にすぎません。
また、被告人は、病院に行こうとしない被害者に変わって、月一回程度、病院に通って主治医と相談していました。被害者から暴行を受ける直前にも主治医と相談しており、次回に行く際には主治医に暴行事件のことを相談しようと考えていました。被告人は、被害者から暴行を受けた後、同じような事件を起こさせないためには、被害者を目白の家に戻すのが最善の策であると考え、目白の家のごみ処理や、管理会社の訪問など、被害者を戻すための準備を進めていました。先ほど述べたとおり、被告人は被害者の暴行により、急性ストレス反応を発症し、その症状である困惑状態に陥ったため、意識の消失が生じていた、すなわち、行動する上の選択肢が心理的に減少していた可能性もあり、暴行から事件前のわずか6日間の間に、警察や主治医に相談しなかったことを持って、短絡的と評価することは誤りです。
被害者は、二階から一階に降りてきた被告人に対し、約1メートル離れて、やや前かがみになり、両手のこぶしを握って肩付近まで上げた、いわゆるファイティングポーズをとりながら、6日前の暴行事件と同様なすさまじい形相で「殺すぞ」と言いました。そのため、被告人は被害者に襲い掛かられて、殺されると直感し、被害者に対抗するには、包丁で刺して抵抗するしかないという思いから、反射的に本件行為に及んだのです。被告人のこの行為は、正当防衛か、仮に被害者に殺されるというのが誤解であっても、誤想防衛に当たると考えます。
我々は、原審においては、罪を償いたいという被告人の意向や、公判前に争点を整理し短期間で審理を行う裁判員裁判の日程も考慮して、早く裁判を終わらせた方がいいという考えから、正当防衛の主張はしませんでした。しかし、本件についてはやはり、正当防衛か誤想防衛の主張をすることが実態に最も即していると考えるので、控訴審においてはぜひご検討いただけるようお願いいたします。
熊澤は、控訴趣意の陳述中、下を向いて、配られた控訴趣意要旨に目を通していた。
弁護人の控訴趣意に対し、検察官の答弁は、「弁護人の主張には理由がなく、控訴は棄却されるべき」という短いものだった。
弁護人は、事実取り調べ請求書1,2の通りに、証拠を請求する。
検察官は、弁1,9,10号証は同意するが、弁2~8号証と、別紙の請求証拠については、必要性がないと不同意。被告人質問は、原判決後の情状に限るべき、と述べる。弁11号証は、不同意。弁12号証は証人尋問であるが、必要性、やむを得ない事由がないとして、異議を唱える。
弁護人は異議を唱え、伝聞証拠としてでも採用してほしいと述べる。検察官は、控訴審からの主張はやむを得ない事由はないと述べる。
裁判長は、弁2~9,11号証は、やむを得ない事由はないとして、却下する。弁12号証の証人尋問も、却下する。陳述書と被告人質問は、原判決後の情状に関する点のみを取り調べる。他は採用しない、と述べる。
こうして、正当防衛ないし誤想防衛の主張、急性ストレス反応を立証するための証拠は、精神科医の証人尋問を含め、ほとんどが採用されないこととなった。
弁10号証に関する被告人質問を、まずは実施することとなる。弁護人は、被告人質問の不採用部分に異議を唱えるが、棄却される。
次回が被告人質問となり、弁護人が20分程度実施、検察官は特に実施の予定はない、ということになる。
こうして、11時26分に、熊澤英昭の控訴審初公判は閉廷した。閉廷すると、すぐに傍聴人は退廷させられた。
熊澤は、控訴趣意書の陳述が終わってからは、前を向いていた。請求証拠が次々に却下されているときも、特に表情を変えている様子はなかった。
大量の弁護人は一審の時からついており、熊澤の知り合いではないかとのことである。熱意はあるのかもしれないが、刑事弁護には不慣れなのではないか。鑑定の類は一審で行っておくべきであったと思うし、いくら被告人が望んでいても、徹底的に争点を探す努力をすべきだったのではないか。
ただ、「警察等に相談することによって問題が解決するという、現実的で有効な対処方法が示されているわけではなく、原判決の批判は、建前論、結果論、楽観的な組織信頼論にすぎません」という指摘は、その通りであると思った。暴力犯罪にあっている人間が、恐怖や無力感から、他者への相談ができなくなるのは、よくあることだ。それに加え、親子関係という、逃れられない関係が、熊澤を縛り付けていた。告訴して、それで終わりにはできないということだ。それが、一層相談を困難にしていたことは、十分あり得る。行動を「短絡的」と断罪した原判決は、苦痛や、相談の困難さも、軽く見ているのではないかと、どうしても感じられる。
控訴審での証拠調べは、情状に限られるようであり、裁判はすぐに結審終結してしまうだろう。しかし、判決がどうなるか、それは気になった。
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