入れ替わった死刑判決~封印されし冤罪事件・大蒲原村強盗殺人事件~・その1
(1) 序
明治時代には、冤罪は司法上の問題として可視化されていなかった。もちろん、無罪判決はあったが、「冤罪事件」として問題視されるようなことはなかった。冤罪が注目されるようになったのは、大正時代の鈴ヶ森お春殺しの辺りからである。埋もれた冤罪事件は、どれほどあるのだろうか?
この事件も、埋もれた冤罪事件の一つである。
明治40年、新潟県の大蒲原村の役場で、吏員の男性二人が殺害された。起訴された被告人は、樋口忠次、畑石蔵、丸山久次郎、大塚惣吉、安中庄五郎の五名。このうち、一審では忠次、石蔵、久次郎の3人に死刑判決が下り、惣吉と庄五郎の二人は無罪となった。
しかし、控訴審ではそれが逆転した。
忠次と石蔵の死刑は維持され、惣吉も引き続き無罪となった。しかし、庄五郎が死刑となり、久次郎が無罪となったのである。
五人が死刑求刑され、うち二人が無罪になるだけでも、大問題である。しかも、この事件では死刑判決を受けた者が一審と控訴審で入れ替わっている。事件はどのような経緯をたどったのか。どのような理由から、死刑判決が入れ替わったのか。そもそも、一貫して死刑を受けた忠次、石蔵の二人への死刑判決も、十分な証拠に基づいた、適切なものだったのか。残された資料はわずかであるが、検証をしてみたい。
なお、記述の大部分は、当時の公判立会検事であり、元検事長である田中昌太郎が残した「越後大蒲原村役場強盗殺人事件の顛末」という記録に寄っている。捜査官側の、不十分な記録に基づいたものであるが、刑事裁判記録への閲覧が極端に制限され、保存も怪しまれている日本では、寄って立つのはこの記録しかない。
(2)事件
事件は、1907年1月19日の夜間、雪深い越後で起こった。
中蒲原郡大蒲原村の村役場で、吏員の男性Y・YとF・Tの二名が殺害された。刃物でめった刺しにされ、殺害されるというものだった。金庫を破壊しようとした痕跡はあったが、破壊すること能わずして、犯人は逃走したようであった。
現場となった村役場は、大蒲原村大字田中に設置されており、県道に沿った場所にあった。木造二階建ての建物であり、周囲は水田であり、40間ほど離れたところに人家があるのみであった。県道に沿って表門があり、裏及び北口に門があったが、いずれも久しき間、施錠されておらず、開いたままになっていた。事件当時も、開いたままになっていたと思われる。
死体は翌20日に発見されたらしい。1月20日午前10時20分、分署長警部の下村重英より急報があり、検察官は裁判所書記とともに、翌1月21日午前9時に現場となった村役場に出張した。
なお、1月21の検証調書以前には、電話報告書などの付属書類は、一通も存在しないとのことである。
強盗目的と思われ、検察・警察は捜査を進めた。検証では、前記の現場の状況を含め、以下のことが明らかになった。
Y・Yの死体は、表門入り口より右手に当たる、六畳間の西南隅にあおむけに倒れていた。死体は裸体であった。全身血まみれであり、死体の上にはF・Tの胴着と、Y・Yの単衣及び綿入を重ねて覆ってあった。
F・Tの死体は、Y・Yと同室の東南隅、火鉢と机との間に、裸体のまま蹲るように倒れていた。全身に血痕が付着し、その周囲は鮮血淋漓たる状態であった。死体の上には、F・Tの着衣がかけてあった。
「各被害者の惨状酸鼻を極む」
と記録にはある。
二人は裸体であったが、この地方では、就寝時には着衣や下帯などを脱ぎ、全くの裸体となって寝る習慣があったとのことである。
死体を覆う衣類は、犯人が両名の寝室より持ってきたものと認められた。
現場の六畳室と入り口の間には、三尺の硝子戸二枚が締め切られており、入り口に接したガラスの一枚が破れ、破片が戸の前後に散乱し、他の硝子戸には少量の血痕が付着していた。
寝室の隣の炉のある六畳間には、血痕を印したる足跡一つが認められ、長さは尺曲八寸二三分、幅約三寸強であり、被害者両名の足と比較し、長さ五六分、幅約一二分長くかつ広かった。犯人の足跡ではないかと思われた。
裏門口の中央には脱糞が残されており、犯人が侵入前に行ったと推察された。実際、泥棒が侵入前に脱糞することは、頻繁に見られたのである。粗食者であり、豆類を食する者の脱糞と認められた。
金庫は役場内に二つあり、うち収入役に係る現金を入れておく金庫は、刃物や石を使用し、こじ開けようとした痕跡があった。金庫から三間ほど西に、重さ二貫五百匁ほどの石があり、表面に欠損が認められた。平素からそこに置いてあった石であり、犯人がこれを用いて金庫をこじ開けようとし、かなわず、元の位置に戻したと思われた。もう一つは村長の保管にかかる書類を入れておく金庫であり、これは手を付けられていなかった。
収入役がその金庫から金銭を出納していることは、外来人から見て容易に知ることができた。
収入役卓上のランプの灯は、灯油が残存しているにもかかわらず消えており、犯人が消したと思われた。また、卓上には印紙類の売上金五~六十銭が置いてあったはずだが、これは一厘銭四つを残して消えていた。書記の卓上からも、六銭が抜き取られていた。
表入口より右手六畳間に上る上り段上には、泥草履のごとき痕跡があった。収入役席より南側の窓は、施錠用の釘が外され、ニ三寸開いたままになっていた。またその窓より一尺ほど東方に、土足を踏みかけたるごとき跡があった。その窓の下に犯人の足跡と認められるものがあり、足指の印と見えるものが一か所あった。
窓の内側にある書箱には、少量の血痕が付着している箇所が一箇所あった。村長席の傍の窓も施錠用の釘はあけられており、その窓の外側には足跡があった。
裏門と脇門は開放されていたが、積雪は五寸あったにもかかわらず犯人の足跡はなく、ここから出入りしたとは認められなかった。
犯行は強盗目的であり、この時期に公金が金庫にしまわれていることを知っていたこと、被害者の一人に着衣をかけていたことから、事情の詳しい者の犯行ではないかと推察された。
検証は1907年1月21日午前9時に始め、同日正午に終わった。
(3)捜査
捜査が開始されたが、それは欠陥があまりにも多いものであった。
・捜査に際し、平面図を一つ添付するのみで、一枚の写真も利用していない。
・指紋について考慮を払った痕跡がない。
・血まみれの足跡を発見するも、保存し、容疑者のものと比較しようとした形跡がない。
・被害者の衣類などの損傷については、簡単にしか検証していない。
・被害者の衣類などは、押収されず、検証直後に関係者に還付され、焼却されてしまっていた。
この記録の著者は、控訴審における公判立会検事である。被告人たちを有罪と確信している。そのような人間から見ても、捜査は不備の多いものであった。
被害者両名の遺体は、藤川武二医師により、鑑定された。
Y・Yの創傷は12か所あり、致死の原因は、多量の出血、内臓の棄損に基づく虚脱。右顎下気管の右側の刺傷、左腸骨前面の小腸が脱出した貫通創、左頸部の刺創が主たる死因であった。
F・Tは八か所の創傷があり、左顎関節部下に大刺創があり、これにより即死したとのことであった。
二人の創傷は、大ナイフないし短刀のような鋭利な刃物と、鑿のようなもので突き刺されたとの所見であった。凶器はこの二種類以外に、小ナイフも用いたものと推測された。
このように、凶器が複数あることから、複数の犯人ではないかとも推測された。
当時の新潟県の新聞としては、東北日報が僅かに残されているだけである。その記事は僅かなものであるが、そこからも周囲の動きや捜査の経緯を追っていきたい。
本来、事件のあった日にはF・Tの息子が宿直をするはずであったらしいが、F・Tが息子に代わり宿直をして、被害にあった。また、Y・Yも足が痛むと帰宅を中止し収入役に代わり宿直について、被害にあった。被害者両名とも、他人に代わり被害にあったことになる。
大蒲原村では、Y・Yの遺族に扶助料などとして150円を支給。F・Tの遺族には50円を支給した。また、各町村役場員より一人10銭以上の義援金を募り、これを両名の遺族に送ろうという動きがあった。
小野澤検事の指揮下、捜査は勧められていたが、1月24日、T・T、H・S、M・S、M・Yの四人が拘引された。T・T、H・Sの二人は取り調べの上収監され、M・S、M・Yの二人は1月25日裁判所へ送致された。捜査陣は、「徹夜で執務を」行っていたとのことである。些細な理由から、怪しい人間を片っ端から拘引しているようにも見える。
そして、1月28日夜10時、畑石蔵、樋口忠次、丸山久次郎、安中庄五郎、他二名が捕縛されたとのことである。
樋口忠次が初めて検察から聴取されたのは、同年1月29日の事であった。
忠次は、事件時は満35歳であり、木挽職であった。刑の執行時、両親は死亡しており、事件時には妻と子供二人がいた。教育は無教育であったようである。新聞には前科数犯ありとなっているが、教誨師の手記によれば、前科は書かれておらず、新聞の僅かな情報に信憑性があるかは疑わしい。
忠次は、引用された聴取書の一部によれば、要旨以下のように供述した。
・1月19日、大塚惣吉から酒一升と肴を持ってこいと依頼があった。私は酒を持ち、妻の父である丸山久次郎はコンニャクと油揚げを買っていくことになった。
・私が一足先に出かけ、山崎病院に行くと、惣吉はすでに同所に来ていた。久次郎は私より一時間遅れて午後2時ごろに病院に来た。その後に畑石蔵が迎えに来たので、惣吉は先に帰宅した。
そして、引用部分の末尾には、次にように書かれていた。
『私は昨日当警察において取り調べを受けたる時に、私の衣類に血痕が付着したるを尋ねられ、弁解に窮し覚えず泣いたのである』
血痕の付着から、警察に疑いを向けられるようになったようにも思える。予審記録に寄れば人血であったらしいが人血ならば誰の血痕がどのような状況で付着したのか?これだけでは、要領を得ない。
同日、樋口忠次の義父である丸山久次郎も、第一回の検察官聴取を受けている。久次郎は逮捕時、数え年で56歳。針医を生業としていたとのことだ。前科数犯と新聞には書かれているが、これもやはり疑わしい。聴取書引用部は、以下のとおりである。
『去る19日頃、良次(註:忠次の誤記か?)と大塚惣吉方へ行った。それは良次が惣吉より金20円を借用するについて保証を頼まれたためである』
『その日は惣吉方の都合で山崎病院へ参った。それは午後4時頃であった。同夜9時ごろに至り、惣吉方より使者が来て、金借の事は明白にしてくれとのことであったから、Mと私が惣吉方に参り、同夜10時頃六角を借り受けて帰った。その帰途に良次と共に村役場にF・Tを尋ねて行ったことはなし』
畑石蔵も、1月29日に第一回の検察官聴取を受けた。
事件時、満42歳。石切り職を生業としていた。刑の執行時、父はなく、母は存命。新聞によれば、父は、牧喜之助といい、明治三年に親殺しの罪で磔になったとのことである。これは、田中昌太郎の記録において、大塚惣吉の予審調書として『その父は親殺しの大罪を犯した者ですから』とあり、信用できるのではないか。事件時、妻子がいた。大塚惣吉の予審調書によれば、石蔵は妻を鉈で傷つけたこともあったらしい。教育は無教育であったようだ。
石蔵の聴取書の引用部は、以下のとおりである。
『丸山久次郎、樋口良次(註:忠次の誤記か)、安中庄五郎は知人である』
『私は昨年12月31日より大塚惣吉方へ参り働いている』
『去る19日に、良次と久次郎が来て、惣吉の居った山崎病院へ行った。金借の要件だということであった。其夜惣吉の使いとして、山崎病院へ参り、良次、久次郎と共に、惣吉方に帰ったが、同人等は一時間位も話して帰った。その時に四人等に六角提灯を貸してやったのである』
『翌20日朝8時頃、良次が六角を返しに来たが、其時同人はS(F・Tのこと)が通らなかったかと、怒鳴って通ったら役場に行っていると云うことをちらと聞いた。其時私共は未だF・Tの殺されたことは知らなんだ云々』
安中庄五郎も検察官聴取を受けたらしいが、聴取書は省略されている。庄五郎は事件時数え年で34歳であり、馬喰を生業としていた。新聞記事によれば、常に博徒の群れに入り、よからぬ所業をし、とある。
続いて、1月30日、大塚惣吉が検察官より一度目の聴取を受けた。惣吉は逮捕時数え年33歳。資産家であったが、遊郭で金を浪費し、精神に異常を呈しはじめている、と他の容疑者もそうだが散々な書かれようである。聴取書の引用部分によれば、要旨以下のように供述している。
・20日の朝7時、樋口忠次が私方に来た。前夜同人と丸山久次郎に貸した六角提灯を返すために持参したのであった。
・知人が家に来て、役場に人殺しの騒ぎが起こったと告げた。
・忠次はその話を聞くと、「昨夜帰る時に、久次郎は歩けないし(老齢と言う事)、寒くはあるし、またF・Tに用があって役場へ寄って、F・Tを呼べと叫んだが、返事はなし。玄関を開けて怒鳴ったけれども返事はないし、勝手の方に言って怒鳴ったけれども答えはないから、帰った」と述べた。
・私は「用もないお前たちが何をしに行った」と訊くと、忠次は「尤もだ悪かった」と言っていた。
・私は「君たちが第一に嫌疑を受けたらどうする」と檄して言うと、忠次は言を左右にして今朝寄ったように述べた。その時忠次の顔は、真っ青になっていた。その時には知人も、石蔵も、そのほかの雇人数人がいた。
この惣吉の聴取が、忠次への疑いを一層濃くしたのかもしれない。惣吉が忠次から聞いたと称する話は、久次郎の供述とは異なっている。このため、久次郎まで疑われることになったのか。しかし、この時点でも忠次への疑惑は、間接的であり、漠然としたものにとどまっている。なお、石蔵は二回目の検察官聴取を受けているが、この聴取書もなぜか省略されている。
同じく1月30日、忠次は二回目の検察官聴取を受ける。聴取書引用部は、以下のとおりである。
『私はこれまで偽りを申して居りましたが、19日夜10時、惣吉方へ出て久次郎と共に、役場門内に入りたるに相違ありませぬ。私が先に門内に入り、久次郎は五六間ぐらい後れておったが、私が勝手口に至り呼びたれども返事なき故、更に北側に廻り、F・Tを呼びたれども、尚返事無きにより、元へ帰りたるとき、久次郎が丁度役場の勝手口の所へ来て居ったから、又共に門外へ出て帰った』
『役場へ行ったのは、私の発意であって、途中にて久次郎に話し、同人も同意せしものにて、地所売買の用談にて、F・Tに逢うためであった云々』
追及を受け、言い分が少し後退した様子である。しかし、夜に役場に行ったという供述が事実だとしても、それ自体は殺人と直接結びつくものではない。
1月30日、F・Tの姪であるF・Kが検察官聴取を受けた。聴取書引用部の要旨は以下のとおりである。
・19日午後6時ごろ、F・Tは樋口忠次が通りかかるのを見て、呼び止めながら外に出て、忠次と何か話していた。忠次は、あのことは頼むぜと云いながら、分かれていった。
・翌20日午前7時頃、忠次は私方に声をかけ、爺や(F・T)はいないかと云うので、爺やは役場にいるからそこへ行けというと、忠次はすぐに役場へ行った。
・その日の10時か11時頃、忠次が私方へ参り、「マー大変だ爺やが殺されたそーだが、自分で最初に見つけたら大変であった、自分が見つけなくて良かった」と言った。
・その後忠次は30分ほど話していったが、すぐ戻ってきて、「私が爺やを尋ねてきたことを誰にも言うてくれるな」「それは、そんなことを探偵されたりするとみっともないから、黙っていてもらうんだ」と言った。
忠次の言動は、多少は疑わしいものだが、単に疑われなかっただけと解釈することも可能だ。
1月31日付の新聞によれば、石蔵の自宅から、血の染みた衣類数点、凶器を押収したとある。しかし、どこまで信憑性があるかはわからない。田中昌太郎の記録に寄れば、凶器は発見されていない筈である。
1月31日、久次郎は第二回目の聴取を行われている。聴取書引用部は以下のようである。
『19日夜の役場の変事に、私の婿の忠次が関係しているものとすれば、安中庄五郎と畑石蔵の両人が常に忠次方に出入りしており、殊に庄五郎は性質狂暴にして、人に喧嘩口論をなし、又暴行をするほどの者でありますから、私は忠次が彼等と交際するのを好まぬのであります。彼等は忠次宅にて時々懇談し居ることを見受けて居るから、庄五郎等に誘われ、忠次が共に関係せしものではないかと思うのであります云々』
久次郎の第二回聴取書の引用部は以上であり、どのような意図から、久次郎が述べたのか不明である。忠次を心底疑っていたのか、検事に執拗に聞かれ、辟易して仮定の受けごたえをしたのか。しかし、この聴取書の内容は、忠次、石蔵、庄五郎の関与について、何ら証拠となるものではない。
1月31日、大塚惣吉の使用人、S・Tも検察官の聴取を受け、19日夜10時ごろに惣吉も石蔵も共にそこに居り寝ていたと答えた。また、同日、惣吉らの知人であるO・Sも検察官の聴取を受けた。以下の通りの内容である。
20日の午前7時ごろ、惣吉宅で役場での人殺しがあったと騒ぎになった際に、忠次が「役場の前の橋の所で怒鳴った」と話をした。そして、20日午前9時ごろ、忠次は「役場前で自分が怒鳴ったと話したことは誰にも言わないでくれ」と頼んできた。
聴取を受けた人々が偽証しているのでなければ、忠次が夜に役場の前でF・Tを呼んで怒鳴ったのは間違いないようだ。これは、久次郎の言い分とは反する。
久次郎は、2月1日に第三回目の聴取を受ける。
『1月19日の午後8時ごろに、山崎病院を出る時には、石蔵が遊びに来て、同人が先に立ち忠次が続いて出て、私がその後から行った。石蔵と忠次は何か小声で話をしながらいきたるも私には聞こえなんだ。病院と惣吉方の近道には杉藪があって其処を通ったのである云々』
当初の言い分と、忠次が役場の前で怒鳴ったことについて、どのように説明したのかは、引用されていないので解らない。徐々に石蔵にスポットライトが当てられている感がある。
同じ2月1日、惣吉は第二回目の聴取を、忠次は第三回目の聴取を受けているのだが、いずれも聴取書は省略されている。
そして、F・Nという男性が聴取を受けている。この男性は大蒲原村役場までの道で、二人連れと行き会ったと証言した。
19日夜10時3~40分頃、男性は父と雇人と共に夜道を歩いていたが、大蒲原村役場から村松町の方に向かい三十間あまりの所で、六角提灯を所持した二人組と出会った。うち一人は元六蔵という丸山というものであったが、もう一名は知らない人間だった。役場前を通っていた時には、洋灯が入口右手の硝子戸の部屋についていた。
安中庄五郎は、同じく2月1日に、二度目の聴取を受けている。
『私は旧暦の本月になってから(当日は旧12月20日)石蔵に会うたことはありませぬ。又同人に頼まれて役場に強盗に入った様の事はありませぬ云々』
断片的な引用だが、ここからは、この時点で検察官が、石蔵と庄五郎が強盗殺人の共犯であるという予断を抱いていたことが読み取れる。
そして、2月1日、忠次は第四回目の検察官聴取を受ける。そして、それを最後に捜査は終わり、検察官は樋口忠次、畑石蔵、安中庄五郎、丸山久次郎、大塚惣吉の五名の人間を、強盗殺人の被告人として起訴し予審を請求するのである。
忠次の第四回聴取書は、以下のとおりである。これも長いので、概要を記す。
・これまで偽りを申して居り、誠に恐れ入ります。実は1月19日夜9時、畑石蔵と一緒に山崎病院を出て、丸山久次郎は少し遅れてついてきたが、杉藪の通りで石蔵が申すには、「大塚惣吉も近頃非常に金に困っているが、役場には800円からの金があるそうだから、一緒に強盗をやり、とった金は四人でも五人でも、等分に分けよう」と言った。
・私がその時、F・Tに用があると言ったら、石蔵は「丁度幸いだから君はF・Tを役場から呼び出し、村松へ連れて行って、そうしてまたここへ来るまでには、12時ごろにもなるだろうから、時刻もよい。役場には俺が先に入っているから、もし君が来たときに役場に灯がついていたら、俺がいること、もし暗くなっていたら俺がいないことと思え」「君と庄五郎と俺の三人でやれば、一人のY・Yを逃がす気づかいはない」と言った。惣吉が出てくるとは言わなかったが、同人に頼まれたことだと言った。
・私は石蔵の言を承諾し、共に惣吉方に行き、大塚氏と書してある六角提灯を借り、久次郎と二人で役場の前に行った。久次郎には、金策につきF・Tを起こして連れて行くからと言い、役場に立ち寄った。私は勝手口の戸を三、四度叩き、二声三声呼べども返事がないから、裏口でも読んだが返事がなく、そのまま帰った。役場の灯はあまり明るいものではなかった。遊郭の方へ行く道で、久次郎と別れた。
・帰宅して10時半の時計を聞いたが、煙草をのんで妻子が寝ている所を見て、石蔵との約束を遂げれば自分も命が亡くなる、行かない方が安全だと思い直し、寝た。しかし、煩悶して終夜寝付くことができなかった。
・翌朝心配にたえず、六角提灯を惣吉方へ返しに行った。途中6時半ごろ役場に行って、勝手口の戸を二つばかり叩き、F・Tさん、と呼んだが返事はなく、石蔵にやられたと思った。表門から入り口まで草履履きの跡や、足袋裸足の跡も見え、これはいよいよ決行したのだと胸を躍らせながら、惣吉方に走り行った。
・惣吉は寝ており、石蔵は煙草を吸っていた。私を見ると顔の血色をなくした。惣吉は寝ながら「早かったな」といって起きてきたが、石蔵は何も言わなかった。その際、知人が来て、役場で盗難でもあったのか、駐在所へ報告に行ったものがいる、と話した。私は、「昨夜役場へF・Tを訪れたが、寄らないでよかった。今朝もちょっと寄ってみたが」と話した。石蔵は顔色をなくした。惣吉は、「なぜ夜中に役場などへ寄るのか。解ると大変なことになる。貴様がとっただろう」と言った。私は「左様なことをする男ではない」と答えた。しかし、私は石蔵の話を思い出し、胸を躍らせ、顔色をなくした。
・私は30分ほど茶を飲み、惣吉は酒を飲み、石蔵は何もしゃべらなかった。惣吉が「役場へ寄ったことはよろしくないから口止めをしろ」と言ったので、知人に口止めをした。
・初め杉藪での話の時、石蔵は私に「首がなくなっても言うてくれるな」と硬く頼んだ。1月24日、石蔵宅へ行くと、「なぜあの晩来てくれなかった」と言った。私は「客が来て二時ごろまで話をしていて行けなかった」と答えた。石蔵は「もはや覚悟しているけども、君は首が飛んでも決して言ってくれるな」と硬く申した。
・1月28日夕方、石蔵が家に来て、9時半まで話をしていった。「惣吉からの書面は自宅へ置いてくれるな」「警察が来て六角提灯を持って行った」「疑いを受けると大変である」と告げた。私は何も片付けずにいると、その夜警察署に喚問された。
・1月24日石蔵に会った時に、「あの時の800円は早く納めてしまった後で、役場にはなかった」と話していた。
上記の忠次の聴取書をもって、捜査は一通り終了したこととなった。そして、翌2月2日に、検察官は予審を請求した。一方、T・T、H・S、M・S、M・Yの四人は、予審免訴の決定を与えられた。警察、検察は、これをもって事足れりとしたようである。
何処が事足れりなのか?
忠次の第四回聴取書も、何ら犯罪事実を明らかにしていない。そして、結局は犯行を否認している。忠次については、その言動が何となく怪しく感じられる、というに過ぎない。石蔵について、忠次の第四回聴取書により、漠然と関与が言及されたに過ぎない。そして、その石蔵について、再聴取を行った形跡がない。久次郎、庄五郎、惣吉については、どのような点に起訴するような疑念を抱いたのか、推測するのも難しい。
また、物的証拠の存否も、不明確である。忠次については、着衣に血痕の付着が見られたようである。話は前後するが、新潟地裁判決や予審記録によれば、石蔵についても、着衣に血痕の付着が発見されたようだ。しかし、それ以上の記録はないため、これらの血痕は人血かではあるものの、いつ、どこで、誰の血液が付着したかも不明である。また、捜査時の記録には、着衣の血痕についての言及がほぼ存在しないようである。
捜査時の供述も、物的証拠も、到底起訴に耐えられるものであるとは思えない。
田中昌太郎も、この証拠の欠如に、さすがに疑問を抱いたようである。証拠について「元より十分なものではないことは明白である」「只僅かに2月1日に至り、樋口忠次がなしたる第四回の供述により、被告人等一団の加害者等が本件の犯行を為したることを推知するにとどまり」「現場における犯人の行動など一切不明である」と批判し、忠次にしても、凶行に関与していないと主張している事に言及している。そして、「かかる不完全なる程度において予審を求められたのであることに注意を要する」としている。
また、捜査時の記録には、司法警察官吏の作成した記録は一つも存在しないとのことである。最初に検証を行ったのは検事、その後に被告人や関係者を聴取したのも検事であった。警察は何をしていたのか?捜査の体勢はどうなっていたのか?疑問は尽きない。ともあれ、記録の欠如のために、犯人発見の端緒、捜査の経緯は一切不明となっている。後の検証もできない状態である。田中昌太郎も、この点に対して苦言を呈している。
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