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リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

序論

ニーチェとマルクス、あるいはハーバーマスとハイデガーを統合するような、《人間》《社会》《合理性》、あるいは他の何であれそうしたものの本性に関する理論など存在しない、という事実を認める境地にまでもしも到達することができれば、自律を語る著述家と正義を語る著述家との関係は二種類の道具のあいだにある関係だとみなすことができる。

→トロッコ問題をはじめとするフレーム問題への回答は存在しない。

ローティのいうユートピア

人間の連帯について、想像力によって達成されるべきもの。
つまり見知らぬ人びとを苦しみに悩む仲間だとみなすことを可能にする想像力。連帯は反省によって発見されるのではなく創造されるもの。
僻遠の他者の苦痛や屈辱に対して、その詳細の細部にまで自らの感性を拡張することによって、連帯は創造される。


P130:ローティのリベラルの主張=リベラル・アイロニスト
「リベラルなユートピアの市民とは、道徳上の熟考をする際の自分の言語、良心、共同体が、偶然性を帯びているという感覚をもつ人びと」

しかし、ミシェル・フーコーはリベラルになるのをいやがるアイロニストであり、ハーバーマスはアイロニストになるのをいやがるリベラル。

P136:リベラル・アイロニストの見解として
「ニーチェ、デリダ、あるいはフーコーのような自己創造のアイロニストが求める類の自律とは、社会制度のなかにそもそも具体化できる種類のものではない。自律とは、すべての人間存在がその内部にもっていて、社会が人間存在を抑圧することをやめれば解放することができるような何か、ではないのだ。」

→「それは、ある特定の人間存在が自己創造によって手に入れたいと希求するものであり、実際に手に入れる者はわずかなのだ」

P139:ローティの考えるリベラル・ユートピア

ハーバーマスの「主観中心的理性」から「コミュニケーション的理性」へという転換。
ハーバーマスは「コミュニケーション的理性」に合理主義を与えようとしているが、ローティは普遍主義であろうと合理主義であろうと最新のものにしたいとは思っていない。
「私が強調してきた論点──つまり、リベラルな社会とは、歪みなきコミュニケーションの帰結に偶然なったものであれば何であれ、すなわち、自由で開かれた闘争に勝利した考えであれば何であれ、それを喜んで「真である」(あるいは「正しい」または「正当である」)と呼ぶ社会である、という論点──と同じ論点をつくりだすうえでの、誤解をうむ方法の一つにすぎないと思える。この転換が意味するところは結局、人間という主体と知識という客体のあいだにあらかじめ確率されている調和というイメージを棄て去ることであり、したがって伝統的な認識論的─形而上学的問題を棄て去るということなのである」

物語の代わりに、多元性を引き受けること、普遍的な妥当性への希求をやめることを、次第に受け入れてゆくという物語を、私はすえたいのである


P181
「もっと多くの開かれた空間を、自己創造にもっと多くの余地を、がアイロニストの側から社会に対して向ける標準的な要求であるという事実と、この要求は市井の人びとにとっては何ら意味をなさない一種のアイロニーを含む理論的なメタ言語を話す自由のためだけにあるように思えるという事実とが等しい重みをもつ」

P201 プルーストとニーチェ→アイロニズムの文化
「伝承された偶然性を自ら創造した偶然性に置き換えることに生涯を費やした~~~さらに、自己創造の過程そのものは完全には意識的ではありえない偶然性に属する事柄である、と意識していた。」


「プルーストとニーチェにとって、自己再記述よりも強力な、もしくは重要なものは何もない。彼らは時間と偶然(チャンス)に打ち克とうとはせず、ただそれを利用しようとする。彼らは明敏に自覚してる。解決、感性、自律として重みをもつものはつねに、人がいつ偶然にも死んでしまうか、もしくは発狂してしまうか、ちうことの関数であると。しかしこうした相対性は無益さを伴うものではない。なぜなら、アイロニストが発見しようと期待しながらも、発見する前に死に衰えてゆかざるをえない、そうした大いなる秘密など何もないからだ。再記述によって編みなおされるべき小さな死すべきものが存在するだけだ。」

アイロニストにとっては、「よりよい記述」という観念を利用することはできるが「正しい記述なるもの」という観念を使うことができない。
こうしてアイロニストは、自らが「即自存在」になれないことに無益さを見たりしない。
けっして自分でありたいと欲しない、少なくとも今の自分でありたくないと欲したこと

第三部 残酷さと連帯

P289
「読むことによって私たちがより残酷でなくなる書物は、おおまかにいって、二つに分けられる。一つには、社会慣行や社会制度が他者にどのような影響を与えるかを見るのに役立つ書物。二つには、私たちがもつ私的な特異性が他者にどのような影響を与えるかを見るのに役立つ書物。」
第一に属するものの典型例──奴隷、貧困、偏見を扱う書物。
F・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』など

P291
「残酷さの回避に深くかかわる書物は~~~<道徳的なもの>と<美的なもの>を対比し、道徳のほうを優先するものはたいして、人間であれば必ず本質としてそなえている能力──良心──と必ずそなえているとはかぎらない特殊な能力──美的審美眼──とを区別する」
→この中でローティは、
「芸術」に力を入れる人間については、他の人びとには何の関係もない感性を手にしたいという欲求があると考える。これを「ニーチェ的な態度」として芸術家は芸術家を賞賛しているとする。


ヘーゲルの他者論
自己関係の成立は他者関係が前提
認識論的──自己は他者に認められることで自己認識
存在論的──自己は他者になることで、初めて自己を取り戻すことができる。

ハイデガー的には本来的に自己は他者関係にある。

アイザイア・バーリン
積極的自由──より高い価値の実現のために自律的に行動すること
消極的自由──個人の行動・選択の自由が他人によって干渉されないこと

→ バーリンの主張。積極的自由よりも消極的自由が本質的で守られるべきである。積極的自由を保障することは自由を阻害してしまう。
リベラリズムの立場:さまざまな価値に優劣はないことが条件=価値多元論

例)
価値の優劣がない→自由な思想、自由な言論は国家は侵害してはならない→消極的自由
しかし、
「言論の自由を守るために、あなたも政権を批判しなければならない」、「デモに参加しなければならない」→積極的自由であり、自由の実現のために選択・行動の自由が制限される。

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