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『ホモ・サケル』第一章 主権の論理②

締め出し:ジャン・リュック・ナンシー
法自体のないところで法を維持し、自らを適用から外すことによって自らを適用する、法の潜勢力。例外関係はひとつの締め出しの関係であるといえる。

主権者たるノモス

P49:「ヘシオドスにおいては、ノモスは暴力と法権利、野獣の世界と人間の世界とを分かつ権力である。ソロンにおいては暴力と正義の「つながり」は両義性も皮肉も含んでいない。それに対して、ピンダロスにおいては、主権者たるノモスは、法権利と暴力とを結びつけることでこの二つを不分明の危険にさらす原則である。」
「すなわち、主権者とは、暴力と法権利のあいだが不分明になる点であり、暴力が法権利へ、法権利が暴力へと移行する境界線である」

潜勢力と法権利

構成する力を潜勢力、構成される力を現勢力とおく。潜勢力はここでは憲法制定権力と訳されているが、これは合意形成するという意味で理解できる。構成される力、現勢力は、潜勢力、つまり潜在している力から現実的なものへ発展する過程で作用する「既成権力による無理な押しつけ」と解釈することができる。
アガンベンはこの潜勢力と現勢力が切り離されていなければならないということを主張する。
どういうことだろうか?
それを理解するには、ネグリ・ハートのマルチチュードを話す必要がある。マルチチュードは、人と人との寄り添いで生まれる(共同体やアソシエーション)力である。これは既成権力への対抗手段、オルタナティブの運動であるといえる。マルチチュードは潜勢力から発展した現勢力、つまり構成された既成権力としての無理な押しつけを否定する。そこに自身のアイデンティティを見出している。例えば、潜勢力から現勢力へ発展したのがトップダウン型の政治主導的権力だとすると、それをボトムアップ型のマルチチュードで打ち破ることができるというのがネグリ・ハートの考えだからである。
アガンベンはこれに対して楽観的すぎると危険視しているし、エスポジトの世代からするとネグリ・ハートの世代はもはや二世代前の旧世代の考え方だからである。
ネグリ・ハートのいうマルチチュード、これを潜勢力だとすると、その新しい潜勢力、憲法制定権力という構成する力は、トップダウンを打ち破ることはできるかもしれないが、結局それは新しい現勢力を作り出してしまうだけであると、アガンベンは主張する。
c.f.)政治家の場合、政治家が主導していたものを専門家に話を聞くべきという決まりができたとする。その場合、専門家が認めないものは認めないという新しい現勢力ができただけということになってしまうわけである。

アガンベンはその勢力の移行の問題を提起している。そしてその問題に対してどうするべきかというのが今の政治哲学のテーマであり、手放しでマルチチュードを肯定している局面ではない。

潜勢力


アリストテレスの政治哲学で「デュミナス」に相当する、能力・可能態・潜勢態の意味を持つ。言葉の意味通り「潜在している力」。本書の中では「構成する力」と表現されている。
アリストテレスの『自然学』では、事物の生成として可能的なものから現実的なものに発展することであると考えられている。それは現象として発展可能性のある潜在的な力から現勢力への移行という意味で使用される。
例)まだ花でない種子(可能なもの)は、発展することで花(現実的なもの)となる。前者を「デュミナス」、後者を「エネルゲイア」と呼ぶ。
両概念は「質料」と「形相」にも関係している。形相の結びつきうるものとしての質料(可能態)は、すでに両者の結びついた個物(現実態)として現実に存在する。
現勢力と潜勢力を超えた社会概念へ
「規制強化の意味」について、芸術や設計、建築の価値は、法律で決めるものではない。
最近の抗工事問題では、大企業は老朽化しているから壊して建て替える必要があると主張する。しかし、それをすると大量の廃材が出て、無駄な経費もかかり、結局大企業しか出来なくなる。
そういう論理で社会は動いてしまう。例えば、国の手法は全国一律なので、規制強化はすべての企業に同等に作用する。大企業で数多く生産、販売するところが効率よく、有利になってしまう。
※これからの「社会に向けて」というお題目は、経済効率優先と法令厳格化が、大量生産と最低の質によるスクラップアンドビルドをうむ。GDPは増えていくが、生活が豊かにならない。

法律は「規制する側」と「規制される側」という2つの立場をつくるものであり、これを公共調達でいえば「調達するもの」と「調達されるもの」だが、このように分離、対立している限りでは、現勢力が新しい立場に取って代わるという同じ構造の繰り返しになってしまう。

構成する権力

P62:「構成する権力は、これこれと規定されている法的秩序による条件付けや強制を何であれ受けることなく、あらゆる構成される権力の外部に必然的に自らを維持する」
しかし、これと反対のテーゼがしだいに同意を得るようになっている。すなわち、構成する権力、この場合、潜在している力を憲法にあらかじめ改正権力として組み込もうとする。つまり、潜勢力から現勢力への過程を権力として潜在的に規定しようとすること。憲法の生まれる元となる権力を、法に先立つ純粋に事実的なものとして脇に取り除けるというテーゼ。


革命について

P64:「アーレントは『革命について』でこの一節を引き、革命の諸過程において主権という審級が現出することを、構成する権力の立法行為を基礎づけうる一つの絶対的な原則の要請として叙述し、この要請がどのように悪循環に巻き込まれるかを示している。」
アーレント『革命について』を解読する

ここでの基礎的な問題は、構成される権力、つまり現勢力においてけっして汲み尽くされない構成する権力をどのように構想するかということではない。マルチチュードの場合、新しい潜勢力によりトップダウンは打ち破れるかもしれないが、その構想は結局は新しい現勢力の出現があるだけである。
そうではなく、主権権力から構成する権力をはっきり区別するという、困難な問題。

法の形式

フランツ・カフカ「法の前」
P75:ジャック・デリダ「「法」は見張ることなく見張る。それは番人に護られているが、番人は何を護ってもいない。門は開かれたままだが、何に向かって開かれてもいない」
カッチャーリは、<法>の権力がまさに、すでに開かれているものに入ることができない、すでにそこにある場に到達することができない、というところにあるということを、さらにはっきりと強調している。「門がすでに開かれているのに、「開ける」という希望をどのようにもてるだろうか? <開かれているものに入ること>など、どのように考えることができるだろうか? 開かれたものにあっては、人はもうそこにいるのであり、物事は与えられており、人は入りはしない。我々は、開くことのできるところにしか入ることができない。<すでに開かれているもの>は動きを封じる。農夫が入ることができないのは、<すでに開かれてあるもの>に対しては、入るということが存在論的に不可能だからである」

このように見ると、カフカの説話は法の純粋な形式を露出していると言える。その形式をとることで法は、もはや何も命ずることがないし、純粋な締め出しとして最大の力で自らを肯定する。
農夫は法の潜勢力へと引き渡されるが、それは法が、農夫からは何も求めず、法自体が開かれてあるべしということ以外の何も言明してはいないからだ。

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