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ヒッチハイクと長野の冬の話 第七話
せっかく入った大学を辞め、アパートを引き払い、する事も無くなった私は、実家にも居づらく、本州中を野宿しながらヒッチハイクでふらふらしていた。
ヒッチハイクは、場所によっては中々乗せて貰えないこともあり、辛い思いもする。
最初の頃は、道路脇に立ち、親指を立てるサインをするのが恥ずかしくて出来なかった。
初めて車が止まってくれた時は信じられず、本当に乗っていいのかと聞き返したほどだ。
何台か車を乗り継ぎ、慣れてくると、車を拾いやすい場所が段々分かってくる。
町外れの見通しのいい、車を停める広さがある場所が運良く見つかると、手を上げた最初の車が止まって驚いたりした。
ヒッチハイクの旅には、今夜どこで寝ることになるのか分からない心細さと、普通の暮らしでは絶対出会うはずのない人と話せる面白さがあった。
晴れていれば公園の芝生や河原、雨の日は公園の東屋や大きな橋の下に登山用の小さなテントを張って寝た。
当時の私が若かったからだろうか、車に乗せてくれた人の何人かに一人は、今夜うちに泊まっていけばいいよ、と言ってくれた。
そういう夜は家族の団欒に混ざって夕食をご馳走になり、翌朝、出勤のついでにヒッチハイクが出来そうな所まで送ってくれるのだ。
二度と会うことも無いだろう親切な人との別れ。
少し感傷的になりながらリュックを背負って歩いた。
その年の冬は、たまたま潜り込んだ信州大学農学部の寮に居候していた。
真冬になるとテント泊が難しくなるので、多くの旅人は暖かい九州や沖縄へと南下する。
お金に余裕のなかった私はこれ幸いと、この寮で冬をやり過ごさせてもらうことにした。
春になればこのまま北海道まで行くつもりだった。
農学部のある伊那谷という場所は、冬場は絶えず強風が吹き付け、恐ろしく寒かった。夜はマイナス20度を超える。
隙間風の吹く古い木造の寮の、万年床を兼ねたコタツを囲んで、夜な夜な全国から集まってきた学生たちと話をした。
屋外での農作業や、動物の世話を終えて帰ってきた学生達は、見ず知らずの私に優しかった。
大学を中退してからずっと一人で旅をしていたので、久しぶりの同世代との話は楽しかった。
そこで、なぜそんな話になったのかは覚えていないが、もう六年間その寮にいるという年齢不詳の髭の男から、どこかに無料で勉強できる家具製作の学校があるらしいという話を聞いたのだ。
家具製作のことは、大学のある長崎市でふと入った家具店で、シンプルで美しい独特の家具を見つけた時から気になっていた。
後になって分かるのだが、それは北海道の工房で作られた、シェーカーという様式の家具だった。
すでに人生のレールから外れてしまったことは分かっていた。同級生たちは良い企業に入っていることだろう。
そういえば、昔から何かを作るのが好きだった。
何をして生きていけばいいかまだ分からないけれど、家具職人なら出来るかもしれない。
冬の伊那谷を覆う曇天の中に、一筋の光が見えた気がした。