誹謗中傷に嘆く人へ 禅語「誰家無明月清風」
ある禅宗の僧侶の話です。
その方は「生きると言う事は、どういう事でしょうか」と問うのです。
「人は皆、本当に生きているのでしょうか?」とも。
そして、禅宗の道元禅師の著わした『坐禅箴』の中の言葉を説明します。
水清して地に徹す
魚行いて魚に似たり
空闊して天に透る
鳥飛んで鳥の如し
「魚は、水の中でいつでも魚として精一杯生きています。精一杯と言う思いもなしに。不平を言い、ふて腐れている魚を見た事がありません。鳥は大空の中をいつでもどこでも精一杯生きています。鳥として。以前修行をしていた雪深い禅道場でも、雪の中小鳥達が元気に飛び回っていました。ひどい寒さに不平を言い、ふて腐れている鳥を知りません。
しかし、人間は、なかなかこの命を精一杯に生きられないのです。
儲かる、儲からない、とか、面白い、つまらない、とか。
ガンバッたり、時には、いいかげんにやったりしているようです。
この命いのちは一回キリです。今、ココは一回きりです。まずこの一回きりの命を精一杯生きる。そしてその次に、儲かる、儲からない。成功、失敗、勝ち組負け組があるのです。
今、ココにしっかり生きる事を忘れて、ああだ、こうだと思い悩み、大切な生を無駄にしてはなりません」。
本日ご紹介する禅語は「誰家無明月清風」(たガいえニカ明月清風なカラン)です。
その意味は、「月は、どこの家にも光を落とします。風は、この家に吹き、この家には吹かないなどと言う事はありません。明月も清風もあまねく照らし、そして吹くのですが、人は、人によってですが、その名月や清風を感じられない人もいます。『誰が家にか明月清風無からん』と言う事は、どこの家にも明月清風はある。無いと思うのは、ただ気付かないだけだという事です。
そして冒頭の言葉。人はどう生きているのか。お金や地位や、財産に目がくらんで、月や風に表現される『大切なもの』に気づかずに、生きていないでしょうか?
その大切なもの、それは貴方自身の手の中にあるのです。それを
「明珠在掌」(みょうじゅざいしょう)
と言うのです。