「無事」 つまらない一日でも、価値のある一日です。
「無事」という禅語を紹介します。
「無事」とは、
なにもない、つまらないと思えた一日であっても、無事であったのなら、それこそ価値のあるかけがえのない一日であったと思えるのです。
何事もない、一見、つまらないように見えても、交通事故に遭わなかった、家族に不幸がなかった、人に傷つけられなかった、、、無事であったのなら
なんてありがたい、素晴らしい日ではありませんか。
たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わす言葉が「無事」であるのです。
常に深い意味を追求する禅語では「無事」とは、もうひとつ意味があります。平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありません。
無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。
私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違たがわぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性というものがあります。
それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。
しかし、私たちは、悟りを外に追い求めてウロウロ彷徨い、迷うのが現実です。
求める気持ち・心があるうちは無事ではありません。
このような話があります。
池ノ坊流の華道を創立した池坊専応は、あるとき、千利休の茶の師である武野紹鴎に依頼されて花を活けます。
活け花のあまりの見事さに感心した紹鴎はこう聞きます。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな―という句を頭に描いて花を活けました」
句の意味するところは、沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。
上手に活けようと意識するわけでもなく、紹鴎を感心させようと小細工を弄ろうするわけでもなく、造作なく、すなおに、花を一本一本挿していっただけ