クソな世界と、壁に空いた穴
『笑いのカイブツ』を観た。
ツチヤタカユキが、オードリーのオールナイトニッポンの放送作家見習いをやり、単独ライブのネタを作り、いろいろあって挫折して、今は落語作家?をやっている、というくらいの予備知識は持ち合わせていたものの、原作も読んでおらず、新鮮な気持ちで、見に行こうと決めた。どうせ誰も読みはしないのだから、『笑いのカイブツ』に辿り着いた私の「ラジオ」遍歴について軽く示したとしても、文句はあるまい。
私のラジオとの出会いは、中学時代などではなく、最近のことだ。鬱屈とした青春時代をラジオに救われた、というような経験を、私は持ち合わせていない。(早寝遅起きの自分にとって、深夜ラジオに救われることは、そもそもほとんど不可能であった。)私は修論を書き終わり、進路が不明なころ、呑気でいられるのも今のうち、かつ近々大学を卒業し就職する弟とも疎遠になるのではと思い、弟を誘って車で出かけた。せっかくだから腹を割って話そう、と思っていたのだが、彼は車に乗り込むや否や、ラジオを流し始めた。アルコ&ピースのオールナイトニッポンの違法アップロード。もう10年近く前の放送で、内容は初めて聞くにしてはめちゃくちゃだったが、妙に惹かれるところがあった。(ちなみにその内容は、ファンだったら誰もが覚えているであろう、ハロウィンの裏でお茶会をやるという、ハガキ職人が覚醒した神回である。)
結局、弟とのドライブは、ほとんどラジオを黙って聞く(と同時に、時々こっちが気を遣って感想を言う)だけの時間がほとんどだった。結果的にその時間は、私にとって想定外なものになってしまい、残念でもあった一方、普段ほとんど話さない弟の趣味を知ることができて、ましてそれを勧めてくれたことは、妙にうれしくもあった。
後日、何に惹かれたのかもわからないが、「あのくだりをもう一度聞きたい」と思い、違法アップロード動画に手を染めた。そこから、僕は数年遅れのアルピーannのリスナーになった。アルピーのラジオの何がすごいかは、多くの方が書いてくれているし、ここでの主眼ではない。ただ、そこから派生して、今ではアルピーdcg、オードリーann、佐久間宣行ann0、三四郎ann0などを大学やバイト先への行き帰りで聞くようになった。その過程で、オードリーの過去のラジオのまとめ動画(やはりこれも違法)に辿り着き、ツチヤタカユキについて知ることになった。
さて、『笑いのカイブツ』である。(いうまでもなく、以下ではネタバレが展開される。)ストーリー自体はおおむね知っていた通りだったが、主演の岡山さんをはじめ、各演者の演技に圧倒された。中でも印象的だったシーンが二つある。一つは、ピンクが働いている居酒屋で、ツチヤが泣き崩れ、それにピンクが寄り添うシーン。もう一つは、クライマックスで、おかんを笑わせるシーンだ。
思えば、ツチヤには、自分を否定する他者がいなかった。おかんも、その他者の位置を担ってはいなかっただろう。(男をとっかえひっかえして、ツチヤとは向き合っていなかった、とツチヤ自身は思っていたのだろう。おかんの愛情は、「包み込むような優しさ」のような「聖母」的なそれとは全く異質なものではあったが、作品を通底していたように思う。)「自分を否定する他者」とは、何も価値観が違う人とか、そういう意味ではない。それは、精神分析における「父」のように、自我の全能感を中断する(=去勢する)ような意味での他者のことを指す。部屋の中に閉じこもるツチヤは、自我中心的な振る舞いで、他者を道具的に了解している。(母に対する当たりの強さをみれば一目瞭然だろう。また、ミカコに恋人ができるや否や、酔った勢いで「お前誰や?」と言い放つなど、他者が自分に都合の悪い振る舞いをみせれば、ツチヤはその他者を理解不可能なものとして放擲してしまう。)一度も鏡を見たことがなければ、自分の顔を知ることもできないように、ツチヤは他者の眼差しをとおして自分自身を見ることができていない。
そんな彼が、ミカコやピンクに出会う以前、あるいは挫折を知る以前に自己自身を発見しうる唯一の出来事は、ケータイ大喜利やラジオで自分の投稿が読み上げられることであった。電波に乗って、他者の声によってツチヤの言葉が読み上げられ、そこに笑いが付加されることで、ツチヤは自分自身を再発見する。部屋にあいた穴は、部屋にいながら外へと接続しうることを象徴するメタファーとして理解できる。(そして、その穴は、東京に出た=部屋を出たのちに、おかんの手によってふさがれる。この時ツチヤは、部屋の壁の穴から安全に世界をのぞくことができず、生身のまま世界に曝されることになったわけだ。)かくして、「お笑い」という「絶対に正しい」ものこそが、自分自身を映し出す鏡である、と彼は確信するに至る。
しかし、「お笑い」に忠実であろうとした結果、ツチヤは吉本になじめず、作家見習いとしての雑用にも耐えられず挫折する。それもそのはず、ツチヤが自らの正しさとしてつねに参照する「お笑い」もまた、やはりツチヤにとって意味のあるものでしかなく、他者には理解され得ないものだからだ。
そこで、印象的な一つ目のシーン、ピンクがツチヤを励ます場面。このとき、ツチヤはその店の常連客になじられ(先制攻撃をしかけたのはツチヤの方)、他の店員にもトイレを汚したことを責められ、四方八方から敵意を向けられる。当然のことだろう。奇声を上げ、顔を机にたたきつけるその様は、事情を知らない者には不安でしかない。しかし、ピンクはツチヤの言い分を聞き、そうした外野の声を一蹴、そして東京で地獄を見たツチヤに、それでもお前には地獄で生きてほしい、と率直な意見をツチヤに告げる。
ピンクはここで、ツチヤに寄り添っているようにみえるが、語りかける内容自体は、ツチヤの自我中心的な世界を否定するものであるように感じられる。とりわけ、ツチヤが信じる「お笑い」と、大衆が求める「お笑い」との決定的な断絶を自覚するように諭すところなどは、その口調とは裏腹に、残酷さすら感じる。その場面には、変わってしまった(とツチヤにはみえる)ピンク自身が、ツチヤへ語りかけることをとおして、自身の変化をも受け入れようとする葛藤さえ垣間見ることができる気がした。いずれにせよ、ここでツチヤは、東京での挫折とピンクの言葉によって、一旦は自分の「お笑い」を捨てることを決断する。それが、彼の(象徴的な)自殺――道頓堀へのダイブである。
印象的な第二のシーンは、いわば一度死んだツチヤの「復活」のトリガーとなる場面である。自殺を経て帰宅したツチヤは、おかんに世話になり部屋に戻る。水浸しの服を脱いだ姿を見たおかんは、パンツ一丁でお笑いに没頭していた若きツチヤの姿を思い出したという。そこでツチヤがおかんへ、死ぬ前のあいつが、おかんに感謝していた、という旨の発言をする。(正確な言葉は覚えていない。)これは、お笑いをやめるツチヤの最後の「ボケ」だったと思う。そして、おかんはそれを聞いて泣いているのか笑っているのか判定できないような姿を見せる。そして、ツチヤは笑った方がいい、などと言いながら、おかんが今、笑ったということをおかんに確認する。そして彼は、ふさがれていた壁の穴を再び力強くあける。勢い余って、その穴は向こう側の部屋まで貫通してしまった。そして、その穴を覗き込むや否や彼は、再びかつての姿――おかんがまさに思い出したその姿――よろしく、ネタ帳に没頭する――。
以上が本作のラストシーンとなるわけだが、思えば、おかんがツチヤの言動で笑うシーンも、ツチヤ自身が笑う姿も、このラストではじめて登場するのではないか、と思う。「お笑い」の虜だったツチヤ自身の笑いも、その母の笑いも全く表現されないというのは、奇妙なことだろう。しかし、最後の最後にツチヤは、最も身近な人を、笑わせることができた。このことは、彼にとって決定的な重要性を持つのではないか。誰に届くでもない「お笑い」だけを信じてきたツチヤは、今や死んだ。しかし、「お笑い」を捨てたことではじめて、ツチヤは誰かを笑わせることに成功する。それは、ハガキ職人として匿名のラジオリスナーを、そして遠隔のパーソナリティや作家を散々笑わせてきた百戦錬磨のツチヤでさえ、決してできなかったことである。
「お笑い」を捨てたツチヤが、おかんとの何気ないコミュニケーションにおいて、再び「お笑い」に目覚め、閉ざされた壁に再び大きな穴をあけ、「お笑い」によって生きることを再び選択する。まさにその穴があいた瞬間に、「お笑い」において死んだツチヤは、「お笑い」において復活する。無論、ケータイ大喜利とラジオで世界を理解した気になっていたあの頃のツチヤではもはやない。世界はかくも残酷であり、求めていた「お笑い」など到底できないことを、彼は身をもって知っている。しかし、だからこそ彼は、人を笑わせるという経験を手にすることができた。そして、その経験を武器に、彼はそれでも「お笑い」で勝負する。
その先のことは、本作では描かれていない。この世界がツチヤにとって致命的に生きづらいものであることは、痛いほどわかっている。また東京に出れば、様々な壁に跳ね返されることも、やはりわかっている。しかしそれでも、エンドロールを観ながら私は、曖昧な希望を抱いた。なぜなら、彼はもう壁を破り、その向こう側の世界を知っているから。彼の「お笑い」は、どんな形であれ、その向こう側に届くはずだという、祈りにも似た何かが、そこには確かにあったように思う。