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しんどさの変化—ADHD・過剰適応を受容する前後で
こんにちは。ADHDです。私は幼少期からずっとしんどさを感じています。しかし最近、しんどさの質に変化が生じたことに気付きました。
これまで感じていたしんどさは、大きく分けて2つに起因するものでした。
①「弾かれ感による寂寞感」
②「特定の作業が全然できず自分を責め続ける苦しみ」
しかし、最近感じているしんどさは、質的に異なるものだと感じています。
➊「過去の自分が「普通」であろうと努力し続けてきたことの虚しさ」
➋「人生を生きる動機がない」
一つずつ見ていきたいと思います。
これまで感じていたしんどさ
①弾かれ感による寂寞感
小学生の頃から今に至るまで、友達に恵まれていなかったわけではありません。常に周囲には友人がいましたし、日々ユーモアをぶつけ合って楽しく過ごしていました。傍から見たら「孤独」と判断されることはないと思います。
しかし、私の考え方は常にどこかズレていました。人より遠くのものが見える一方、目の前にあるものをありのままに捉えることができませんでした。常に「私だけなんか考え方が違うな…」という感覚を抱いていました。
他人とユーモアでつながることは可能であっても、本当の自分の感覚を共有することはできていませんでした。そのため、常に世界から微妙に弾かれている感覚を抱いていました。
いわゆる「過剰適応」の状態だったと思います。五感を使って相手の感覚を察して、常に最適行動を導く日々。振り返ってみると、すごく大変だったと思います。
②特定の作業が全然できずに自分を責め続ける苦しみ
これは大きく分けると3つです。
Ⅰ.一つ目は、ADHD由来の困りごとです。事務作業ができなかったり、時間を守れなかったり、物を紛失したりする度に「自分が悪いんだ…」と責め続ける日々でした。詳しい話は別の記事に書いたので割愛。
Ⅱ.ADHDに加え、私が物事を処理する方法は少し独特だと思います。
⑴どうやら、世の中の全てを文字ベースで処理しているようです。本やPCといった、何かに書かれた文字の理解はできます。一方で、音声情報での説明を理解するのはとても大変です。かなりの集中力を投入する必要があります。
⑵また、私は「直感」が非常に弱いです。「見たものを脳内で一旦言葉に変換する」というプロセスを経ない限り、説明を理解することができません。ふわっとした説明や、視覚的な情報を基にした説明等を掴むまでに少しのラグが必要です。特に中学校の体育の時間では、直感派の先生の説明を一向に理解することができませんでした。「おなかにぐっと力を込めて」とか「足をグイッとこうする」とか言われても分からんよ…
Ⅲ.さらに、「複数の事柄に同時に意識を向ける」のが凄く苦手です。
複数のポイントを意識しなければならない状態が凄く苦手です。はじめてコンサータを飲んだ時、人生で四肢の先端の感覚を同時に感じることができて感動したのを覚えています(4つの事柄に同時に意識が向くなんてありえない)。
複数のポイントを意識しないといけない状態に対してどのように対策していたかと言うと、「全体像を掴んで要となるポイントを理解した後に、重要度順に一つ一つ習得していく」という方法を用いていました。この方法でしか物事を習得できないので、説明されてからできるようになるまで「本当に何も理解してない無の時間」が存在します。とてもつらいです。
この動画で言うところの「水属性」に当たるタイプと思います。
このように、「とてもできる」ことがある一方、「とにかくできない」こともたくさんあります。できないことに直面する度に自分を責め、とてもしんどくなっていました。
最近感じているしんどさ
しかし最近は、少し違ったポイントにしんどさを感じています。
➊過去の自分が「普通」であろうと努力し続けてきたことの虚しさ
私は、他の人に比べて脳の構造や思考様式が質的に異なるようです。最近になって、そう感じるようになってきました。しかし過去の私は、そんなこと分かるはずもありません。何とかして「普通」であろうと頑張ってきました。
質的に異なる思考形態をした人間同士が、本当に分かり合うのは極めて難しいはずです(多分)。しかし私は「普通」を求めて擬態し続けてきました。そうせざるを得なかったと思います。一見すると、他者とのコミュニケーションは取れていたように見えます。ですが、どこか無理をしていたように思います。
自分のしんどさの原因を「脳の構造・思考形式が質的に異なるから」と置くと、確かにしんどい気持ちはかなり楽になりました。質的に異なるんだから普通にやろうとしてもハマらなくてもまあしゃーない、と割り切れるようになりました(もちろん上手くハマるにこしたことはないが)。
しかしそうすると、これまでの経験や友人は偽りの自分の下で積み重ねられたものだということになってしまい、無理して得てきた過去の価値を認められなくなってきました。これまで自分は何をしてきたのでしょうか。「普通」を求めて、無理して人に合わせて、時折(頻繁に?)ボロが出て、苦しむ。どうしてこんな日々を過ごさなければならなかったのでしょうか。これでよかったのでしょうか。
どのような経験であれ、過去の蓄積が現在を形作っているのは間違いないでしょう。しかし無理してやってきたこれまでの経験に対して、価値を大きく見出すことは難しいです。
要は、私は「無理やり普通に合わせた私」以外のペルソナを知りません。また、普通に合わせるために常に全力でやってきました。すなわち、
①普通に合わせていない素の私を、他者に理解されたこともなければ認められたこともない
②自分が普通ではないことを理解したうえで、最小限の労力で普通に合わせる術(程度の差はあるが多分みんなこれをやってる)を知らない
ということです。オワ~(叫び)。
そういうわけで、これまでと同じ生活を送り続けたいという気持ちが失われました。これまでと同じように生活するならば、これまで通りとても頑張って「偽りの自分」を発動する必要があります。
でも、これ以上無理して自分を演じたいとは思えなくなってしまいました。つまり、これまでと同じ生活を続けるのは嫌になってしまいました。
0-100の思考を辞めて、普段は偽りの自分を演じて社会に溶け込みながら、素の自分を出せる時間を徐々に増やしていくのがいいのでしょう。ずっと擬態して生き続けないといけないのは勘弁してほしいですが、多少なら「普通」に合わせてもいいのかもしれません。
でももうすごくしんどいです。なんか、もう全部がどうでもよくなってしまいました。私がこれまでやってきたことは全て無駄だったように思えてしまいます。
本当の自分が積んだ経験は確かにあるのですが、それだけで生きていけるほどの経験値を得たわけでもなく。
世の中の人々は、多かれ少なかれ無理をしているのだと思います。周囲と上手くやっていくためです。しかし私は、未だに周囲とうまく合わせるのが苦手です。中立的な八方美人を演じることでしか世界と溶け込むことができません(見る人が見れば無理してることが分かると思いますが)。しかし、その状態はすごく疲れます。本当の自分を殺し、ユーモアと気配りで覆い隠しています。素の自分を偽り続ける状態が今後何十年も続くのには耐えられません。かといって本当の自分を解放すると、碌なことにならないと思います。安定・秩序を重んじる人々と馬が合う訳がありません。ウワ~(発狂)
あちきは今まで一体何をしてきたでヤンスかねえ…(キャラ変)
➋人生を生きる動機がない
死にたいという欲求が存在するわけではありませんが、生きるための目的・動機も存在しません。先ほど述べたように、過去の自分の延長線上に望む未来があるようには思えません。すなわち、これまでと同じように「擬態」を続けたとしても、”楽”になれることはないと思います。
かといって、「擬態」を避けつつ食い扶持を稼ぐ方法があるようにも思えません。
つまり今の選択肢は大きく二つで、「擬態してしんどいけど安定したお仕事をする」か、「擬態せずに生きていけるような不安定な崖に再度トライする」か。もちろん0-100ではないですが。具体的な方法がいまいち分からないので、二の足を踏み踏みしています。
ところで、自分が見送った(見送らざるを得なかった)選択肢に、「擬態してしんどいけど安定した”高給の”お仕事をする」というのがあります。一度レールを外れてしまうと、もう一度レールに戻るのはなかなか大変です。逃がした魚か酸味の強いブドウが私の判断を鈍らせているようにも思います。
どうにかして、擬態をしなくても安定して生きていけるような崖に取りつきたいところではあります。具体的な方法論は思いつきませんが。一旦安定したお仕事について、そこからトラバースして崖に取りつくのがいいんですかね。よくわかりません。
まとめると、「これをすれば”楽”になれる」というルートが存在しません。次何をすればいいのかわからなくて身動きが取れなくなっています。”楽”になるために、いま私が何をすべきか不明瞭なのです。生きる意味を失うには十分すぎるのではないでしょうか。誰か私を導いてください。るーもす。
まとめ
自己理解が進み、しんどさの質が変容しました。ポジティブに捉えると、過去抱いていたしんどさは、乗り越えることに成功したと言っていいでしょう。しかし、今度は新たなしんどさと対峙する羽目になりました。分け入っても分け入っても深いしんどさ。
今は、次の一手が打てずに困っています。
普通の日々を送れば”楽”になれるとは思えませんし、かといって普通でない人生を選んだとして食い扶持を確保できるとも思えません。
どちらかに寄せないといけないとは思うのですが、現状の私ではいずれにせよ力不足です…
自己分析に時間を取りすぎており、本当にこんなことをしていていいのかという気分になります(こんなことをしていていいわけではない)