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ダンスバトルにおける瞑想の有効性(4)

こんには「踊ろう四十肩」です。

今日は瞑想を通して、
ダンスに対する取り組み方の変化という話をさせて頂きます。

正直言うとあんまりダンスは関係ないかもしれませんが、
瞑想を通して得た「気づき」をみなさんにお伝えしたいと思っています。

いきなりですが、
みなさんは「神様はいると思いますか?」

瞑想について、
「神の存在」「宇宙の真理」「引き寄せの法則」など、
どうにも胡散臭い言葉が出てくる事で、
ネガティブなイメージを持つ方は、少なくないと思います。

正直私も最初はそうですし、
今でも行き過ぎた思想を持つ方は好きになりません。

私の価値観では、
瞑想はあくまでも自分自身との向き合い方を問う行いであり、
他者をコントールするような行いではないと思っているからです。

私自身としては、
Web制作やデジタルマーケティングなどを生業としてやっている、
ちょっとデジタルよりな一般的なサラリーマンの価値観を持っているつもりです。

どっちかと言うと、
テレビでよくネタにされるような
ビジネスカタカナ言葉(アジェンダやフィックスやコンセサスなど)を
ガンガンに使っているようなデジタルビジネスな
クソ脳みそをしている人間です。

こんな私が、
「神様はいると思いますか?」について、
「います!」と断言するようになった
「気づき」についてお話をさせて頂きます。


(1) 「感謝」が出来るようになった

瞑想を行う際に、誘導瞑想を行う事が多いです。

誘導瞑想は、瞑想する際に、
呼吸のタイミングや、
どのような事を考えるべきかを
導いてくれるような言葉を聞きながら、
それに従い瞑想を行う、初心者向けの瞑想方法です。

このような動画の中に、
「感謝する」という言葉がよく出てきます。

頭を無にした状態で、誘導瞑想中に流れてくる言葉は、
とても響きます。

温かく、その日一日を前向きに過ごせるようなメッセージが
誘導瞑想の中では流れてくるので、
毎日それに浸されていると、
次第にそのメッセージの通りの穏やかな人格になってきます。

瞑想をする前は、
とにかく仕事を効率的にこなすことや、
物事を論理的に整理することなどが全てで、
それが出来ていない人間と関わると、
イライラが止まりませんでした。

恥ずかしながら今でも、イライラする事はあるのですが、
それでも大分抑える事が出来るようになりました。

瞑想を通して、
以前よりも、かなり広い心を持って、
他者と関わる事ができるようになり、
また、他者に対して感謝をする事ができるようになりました。

この感謝は、
自分にとって、利や得をもたらす事をしてもらった際に
感謝するという事はもちろんですが、
そうでない場合でも、感謝できるようになりました。

あまりよくない例ですが、
全く見当違いの仕事をやっている部下に対して、
出来ないながらも、
頑張って対応してくれてありがとうと
心から感謝できるようになったのです。

以前は、
このような状況ならイライラが止まらなかったですが、
自分でも信じられないくらい、
イライラする機会が少なく、
逆に感謝できる機会が増えました。

(2) 自分が愚かである事を知った

感謝をする事ができるようになると、
次第に、色々な事に気が付くようになりました。

これまでは、気にしたことがなかったですが、
スマホが使えるのって、通信設備を管理している方がいるおかげなんだな。
とか

台風でも安全に過ごせるのは
コンクリートを誰かが作ってくれたおかげなんだな。

とか

自分が何も考えずに生きいけているのは、
色々な人のおかげなんだと気づく事ができました。

そして、
毎日多くの生命から栄養を頂いている事も
噛みしめるようになります。


これまで、スーパーで陳列された
お肉や魚に生命を感じる事はありませんでしたが、
気付きを得た後、その考えは変わってきました。

道をあるけば、蟻を踏みつぶし、
反射的に、蚊を殺してしまう事もある。

ありとあらゆる人の助けを受けて生きているくせして、
日々、生命を食し、無慈悲に生命を奪う。

そんな愚かな存在が、
自分であるという事に気が付きました。


これは、私だけでなく、全ての人間に当てはまることです。

(3) 全ての生物は地球に生かされている

人間は生きているだけで、
愚かだと感じる感覚を私は持ってしまったのです。

それと同時に私は、ある事に気が付きました。
こんな愚かな私が生きているという事です。

完全に、宗教っぽい感じになってしまったので、
ちょっと現実的な話をしていきます。

呼吸の勉強をしている際に、
空気に含まれる成分について知った雑学です。
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人間は、空気中に含まれる二酸化炭素の濃度が、
1%以上になると体調不良が顕著になり、
酸素濃度が、4~5%減少するとめまいや疲労感に襲われるようになります。
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これを知った時に、
単純に、「空気って絶妙なバランスで成り立っているんだ」と思いましたが、
すぐに、この考えは違うと思いました。

空気が絶妙なバランスなのではなく、
この地球の空気に合わせて、
人間の呼吸器が適合しているんだと気が付きました。


これは大きな気づきでした。

私たち人類、いやこの地球の生物の全てが、
この地球という星に適合する進化を遂げて、
今生きているということ。


逆に言うと、
この地球に生かされているという事です。

この当たり前の様な事に
45歳になって、ようやく気が付く事が出来ました。

全ての生物は、地球に生かされている。

そして地球は宇宙にあり、
宇宙に生かされているといっても過言ではなく、
そうなると、「宇宙の真理」という言葉も
あながちオカルトチックな話ではなくなってくるな、
なんて思ったりもしてきました。

話が、飛躍し過ぎたので、
この話はここまでに。

(4) 感謝にキリがない。だから「神様」と言う

全ての生物は、地球に適合し、
地球に生かされているという気づき
これと感謝の気持ちをつなぎあわせる
と、
とんでもない事が起きてしまいました。

ありとあらゆるものに感謝をしなければならない事態に陥りました。

今、この文章を書きながら、
何気なく口にしたコーヒーに感謝しなければなりませんし、
コーヒー豆を運んでくれた船の操縦士、
コーヒー豆を詰める袋を作ってくくれた人
さらにその人が生きるための食事の材料

あーもう!です。

想像をしきれないほどの感謝を延々にしなければなりません。

これでは、埒があかないので、
私は全てをまるめて「神様」といういう事にしました。

面倒なので、感謝する時は、
まとめて「神様」と称する事でカタをつける
「お手軽感謝法」をにする事にしました。


一神教の方からとんでもない話かもしれませんが、
私は、このような形で「神様」を定義する事にしました。

こう考えると、物事が凄くすっきり整理されます。

「私は神に生かされている」
という言葉も、信仰的な話ではなく理屈としてしっかりと説明できるようになります。

「神は私の望みを叶えてくれる」
これも屁理屈みたいな感じですが説明できます。
だってそうでしょう?
コーヒーを飲む事が出来ているのは、神様のおかげなんです。

日本人には八百万の神という考え方があるので、
日本人的な発想なのかもしれませんが、
私としては、この「神様」の定義が
とてもすんなりと受け入れられるものとなりました。

(5) この身体は神様からお借りしている

自分の中で、神様の定義付けができるようになったところ、
一冊の本に出会いました。

片岡鶴太郎さんの「心の中に静をもつ」です。
https://amzn.asia/d/9VLho71

瞑想・ヨガとくれば、片岡鶴太郎さんを学ばなければいけないと思い、
この本を手にとりましたが、
その中で、私とって非常に価値のある教えがありました。

「この身体は神様からお借りしているものであり、
死を迎えるとは、お借りしている身体を神様に返し、魂は元の場所に戻る」

というものです。

とても深い話で、
私ごときが、語れる内容でもないので割愛しますが、
この身体は神様からお借りしている考えは、胸に響きました。

確かに、こんなに良く出来たモノが
自分のモノであるというのは信じがたいなと思っていたからです。
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■人体の機能で、現代科学ではまだ再現できないもの例

脳の完全な再現:
人間の脳は約860億個のニューロン(神経細胞)から構成されており、
その複雑なネットワークを完全に再現することは現代のコンピュータ技術では不可能です。

肝臓の全機能:
肝臓はアルコールの分解だけでなく、栄養素の代謝、解毒、貯蔵など多くの重要な機能を持っています。
これらすべての機能を機械で完全に再現することは非常に困難です。

完全な視覚再現:
視覚情報を処理する脳の部分に電極を埋め込んで視覚を再現する試みはありますが、
自然な視覚を完全に再現することはまだ達成されていません。
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すごくないですか!?人体って!

これらの事を知ると、
本当に人間とは、神が作ったと言っても過言ではないと思えます。
しかも、人間だけでなく、全ての生物にあてはまる事象になります。。

このような事を知ると、片岡鶴太郎さんが言う、
「この身体は神様からお借りしているもの」という考え方も
確かにその通りだなと思えるようになります。

(6) 自分の身体を丁寧に扱う。

前振りが長くなってしまいましたが、
ようやくダンスの取り組みについての話です。

神様からお借りしている身体という気持ちがあれば、
それは丁寧に扱おうと思えれるようになりませんか?

ニュースで、境内に落書きされたってニュースがたまに流れますが、
そこらへの電柱柱に落書きされてもニュースになりません。

神聖な場所だから、落書きはダメなんです。

そして、私達の場所も神聖な場所なんです。
自分の欲に任せて、怠惰にまみれて穢してはいけないのです。

なんて言うと、ちょっとオカルト感がでてしますので、
マイルド言うと、メンテナンスは丁寧にやるべきです。

神様からお借りてるものなんがら、丁寧に扱わないと。

暴食暴飲はやめよう。
スマホを見続けて脳を破壊するのは辞めよう。
寝不足で仕事するのはやめる
ストレスをずっと抱えて生きていくのはやめる

こんな当たり前の事を、
私はようやく自分の中でしっかりと意識できるようになりました。

なるべくお酒を控え、
添加物の多い食品を避けるようになりました。

そして、より丁寧に扱おうと
朝夜にストレッチをするようになりました。
そして瞑想して感謝する時間が増えました。

こうした事を積み重ねながら、私はダンスをします。
私の中で、ダンスは祈りに近いものになりつつあります。

神様からお借りしているこの身体の機能を最大限使って、
感謝の気持ちを表現し、
そして全ての生命に対して幸せでありますように祈るような感覚。

おっと、危ない油断するとすぐにオカルトな感じになってしまいますね。
でも、これが本心なので、しょうがないです。

自分が踊る事が、自分の為ではなくなったとき、
何かがはじけて変わりました。

誰かのために踊れるなら、
いつでも、どんな時でも踊りたいと思うようになりました。

ダンスバトルとは、
全く関係のない世界線に突入してしまいましたが、
私は瞑想を通して、こんな事を思うようになりました。

そして、「今日も誰かの為に踊りたいという想い」を胸に秘めながら、
バトルのサークルで、心を無にしながら立っている訳です。

長々とダンスバトルにおける瞑想の有効性という話をさせて頂きました。
次回以降は、「ダンス上達に効果的な筋トレの探求」
というテーマで与太話をさせていただきます。

沖縄の秋風を感じるタミーと私

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