途中まで書いたボツまとめ
匂いフェチ
俺は匂いフェチだ。どのくらいかと言うと昔好きな人の匂いが好きすぎて使っているシャンプーを聞いたこともあるし、そのシャンプーを実際に使い、嗅ぎ分けれるようになったこともある。
自己紹介
今更ながら自己紹介をしてみようと思う。
自分は昔から自己紹介が苦手だ。自己紹介って自分の好きなものを言うことが多いと思うけど、自信を持って好きだと言えるものが少ないと思ってしまう。事実のみを言いたくなってしまう。年齢、性別、出身地。この辺は事実であるが、趣味、性格、好きなものなんかは、事実とは言い難い。事実では無いことを言うのは苦手だ。何かを好きだということはハードルが高い。だって私より好きな人がいるから。
みぞおち
みぞおちと聞くと、皆さんはどんな印象を抱くだろうか、さして重要でもないし、頻出するような言葉では無いのは確かだ。
でも私にとってのみぞおちは重要な意味を持っている気がする。
私にとって、みぞおちは激情が湧き出てくるところだからだ。
これに気づいたのは数年前、私の人生が最も暗かった頃だ。自分の未来が分からなくとも、この時が、生まれてから死ぬまででいちばん苦しい時期であろうと断言出来る。
この頃は
最強をめざして
結局は自分が自分であることに自信が持てるようになったら最強なわけで、それは自分の感情にできるだけ身を任せることでしか手に入れられない気がする。
今の世の中ではこの方法で最強になるのは難しくて、地位やお金や他人から認められる能力値を得ることの方が簡単になりつつある(ある程度これらはルートが定められている)
でもこれって相対的評価であり、突き詰めていきようがないと思うし、脆いと思う。
八百万の神を従える日本人
日本人は無神論者と言うより、一人一人が沢山心の中に神を持っている気がする。それが人ならば推しと呼ばれ、それが規範なら常識と呼ばれているだけな気がする。
私にとっての神達の話をしようと思う。
神と認識していないだけで生活の中にあなただけの神が沢山いるからそれを大事にみんな生きて欲しい。
音価と顔ファンについて
最近、同じ歌手が好きな人同士で、お前は顔ファンだろ的な喧嘩が怒っているのを見た。
それに対して自分の所感を述べたい。
まず、顔を出してやっている以上顔ファンが一定数着くことは確実であるが、音楽そのものを100評価している人と、顔、見た目で100評価している人では、全く見ているところが違うので、上記のような喧嘩が起こるのはわかる。
ただ、上で述べたように、音楽のみ、顔のみで評価している人だけでなく、それはファン間の間でグラデーションがあると言える。
例えば、自分は音楽そのもので評価したいと思っているが、歌っている時の表情がいいとか、気持ちよさそうに歌っている方が盛り上がるとか、そういう理由で元々好きだった音楽をもっと好きになることがある。これは視覚的な情報であるから、「お前は顔ファンだろ」と批判的になっている人からすると、邪道な見方なのかもしれない。
ただこれが顔ファンか?と言われるとそうでは無いだろう。
実際、自分がどのくらいアーティストに対する評価を視覚、聴覚から下しているかというのは自覚できないだろう。
ましてや、その人が好きという気持ちを数値化して人と比べることは出来ない。
これを加味すると、「お前は顔ファンだろ」という意見はあまり建設的でないことがわかるだろう。
ではなぜ、そのような人はムカついているのか?
自動詞と他動詞
好きな人に対して、悪くない感触は感じているのだが、俺自身がどうにもできない社会不適合性に俺が振り回されていることを相手が気づいている気がして、そのせいで距離が詰まらずにいる気がする。
俺は俺の社会不適合性をどうにか正当化しなければやっていけないから今はそのようにしているのだけど、それが周りに受け入れられるのかは分からずじまいで(いや、本当は受け入れられるはずもないとわかっている)、実際、今は奨学金を借りるに頼っている生活が、いつ崩壊してもおかしくない。一応、絶望的に仕事が出来ないとかでは無いので、何となく大丈夫だろうという自信はあるが、俺が望んでいない生活をすることに対して、俺がしっかり認識して生きていけるかが不安だ。俺は俺が認めたくない自分であるということを認められるだろうか?
俺は早く今の認識が壊れてしまって欲しいと思っている。いつも満たされない感じがあり、何が満たされない感じを及ぼしているのかを常に考えてしまう。
考えるだけでまとまりもしないし、良くなりもしない。俺はずっとそういうものに向き合っているだけで、これに意味は無い。
早く終わって欲しい。もう神頼みの運命的な出会いに頼るしかない。それか広い意味での自分自身の死。
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