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ピランデッロ埋葬エピソードが映画「遺灰は語る」に
イタリア人の小説家・劇作家ピランデッロの生家とお墓は、イタリアの一番大きな島シチリアのほぼ南端、アグリジェントのカオス村にある。そこに行ってきた話と、亡くなった際の埋葬騒動を前出のnoteに書いた。
タヴィアーニ監督の新作はこのエピソードの映画化だと今年春のイタリア映画祭で伺い、見に行った。
「遺灰は語る」(LEONORA ADDIO) パオロ・タヴィアーニ監督(2022)
遺灰を巡るすったもんだは1930-50年代。故人の遺志は冒頭で遺言状の画像とともに伝えられるのだが、一向に汲まれないまま話は進んでいく。
遺族の意思でヴェラーノの墓地に置かれた遺灰がローマからパレルモまで運ばれる旅路には、ファシズムと貧しい戦後の社会情勢が映されている。厳しい現実を人々が希望を見ながら生き抜こうとしている姿。これらのシーンには、一部別の映画の映像が使われているよう。
若い方々はイタリアに明るさ陽気さや華やかな印象を持っているかもしれないが、自分の最初のイメージは薄暗くて貧しい。「自転車泥棒」などの戦後ネオリアリズモ映画で見てきたものだ。ファシズムと信仰、貧しさと逞しさが際立って自分の記憶に残っている。
これから観る方もいらっしゃると思うので、細かな話はここまでに。ひとつひとつのシーンにイタリア人らしさを感じる、というのは当たり前かもしれないけれど、変わらない友人に会ったように安堵した。口角が少し上がって笑みが漏れる本編、ざらっとした感触が残る短編だった。これがピランデッロらしさとタヴィアーニらしさなのかもとも感じる。すべて理解できるわけではないし、その必要もない。行間や映像から想像することが許されているような余白に、居心地の良さと悪さを同時に感じられることがありがたい。
イタリア語原題は思い入れから、映画の内容と離れているようだ。日本語のタイトルはとてもよかった。最後にわずかでも故人の希望が叶えられたなら、遺灰は静かに語っていたのかもしれない。ピランデッロが苦笑しながら行方を見守っていたのを想像してしまう。
少し昔のイタリアにタイムトラベルした気持ちになる映画。2018年に兄のヴィットリオ監督が亡くなられたために単独での作品で、最初に"a mio fratello Vittorio"と本人の手書きでメッセージが流れ、さみしい。映画館の壁に貼られた映画紹介新聞記事から、「カオス・シチリア物語」の映画化の際に、遺灰のエピソードを入れる案があったこと、パレルモのバルコニーで家族が葬儀の列を見守るシーンのおじいちゃんはパレルモ在住の一般人エキストラ、あの表情は演出ではないとのことを知って、たのしくなった。
上映情報はこちら↓
映画を観た後、半券で割引があると聞き、illyへ。ひさしぶりにmacchiatoにした。いつも入れないけれど、底に溜めたお砂糖ジャリジャリを味わって、懐かしんだ。
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