楳図かずおさんが亡くなった。

自分の生家は新潟市のいわゆる下町といわれるところ。
歩いて1分くらいのところに金比羅通りという商店街があった。戦前からある劇場と戦後に東映映画の上映館の2軒の映画館があり子供の頃はたくさんの店がある、だいぶ賑やかな繁華街だった。新潟地震で寂れてしまったが。
生家はその一本裏手にあるしずかなところだった。町内には「デュークエイセス」のマキノさんの実家もあってね。
生家はいわゆる町屋造りというやつで、前庭中庭後庭もあり、かなり大きな家。玄関から裏庭まで土間で繋がっていた。
京都旅行で町屋造りのカフェとかに行くと実家に戻ってきたみたいな感覚が少しうまれたりして。
取り壊す時に調べたら、天井裏の梁に「万延元年築」みたいなことが書いてあったという。「桜田門で「フットボール」か「ラグビー」でもやりますか。
向かって右隣もかなり大きな庭がある、紙類の卸会社の家。道を挟んだお向かいさんは工場を併設している蝋燭屋だった。こちらも大きな家だった。
左隣は道に面しているので、自分の生家の脇腹にはお店が並んでいる状態。
中華そば屋、民家、煙草屋、紙屋で貸本屋などなど。
低学年のころ。漫画はたいてい従兄弟のお兄ちゃんに読ませてもらったりしていたのだが、だんだんその貸本屋に借りることの方が多くなっていった。
なにしろ2ヶ月遅れのものはタダで貸してくれるんだもん。当時は週刊漫画雑誌は無かった。月刊誌のみ。
「鉄腕アトム」が載っている「月刊少年」は人気があってなかなか読めなかった。兄と自分がよく読んでいたのは「少年ブック」。確か杉浦茂の連載があったはずで、くだらない駄洒落と予測のつかない展開にはまっていた。
借りるものがなくなると大人の読む、いわゆる「貸本漫画」にも手を出していった。さいとうたかをの作品なんかもあった記憶がある。

余談だが自分の先祖はいろんな商売をやっていたらしい。風呂屋とか飴屋とか。
飴屋といえは諸国を巡り人形劇で客を集めた飴売り、忍者がよく情報蒐集のために飴売りに扮していたという。自分の先祖は忍者だったのか!と思っていたら、ちゃあんと立派に店舗を構えていた飴屋だったみたい。残念。
大正期から紙芝居屋さんは見料のかわりに飴を売っていたそうなので親近感を感じたりする。いやこれ後付けの感想。自分も含めて忍者の末裔同士だったら面白かったろうなあ。
でも、うちでは紙芝居屋は禁止されていたのだ。衛生的に良くねえってね。だからタダ見ばっかりで紙芝居のオジサンに白い目で見られたりした。
そういえば片腕の無い紙芝居屋もいたっけなあ。
紙芝居屋が廃れていって絵描きが大量に貸本漫画の世界に来たと長崎尚志さんの小説で読んだ。白土三平や水木しげるもそうだったのね。
白土三平の忍者漫画は好きだったなあ。
自分は漫画のおかげ、この貸本屋のおかげで同級生の誰より早く漢字を覚えることができたのよ。
余談おわり。

3年か4年の時、同級生の野島くんの家によく遊びに行っていた。野島くんの家は床屋さん。店に漫画本も置いていたが、確かお姉さんが買っていた漫画本「少女フレンド」で初めて楳図さんの漫画に触れたのだった。
「紅ぐも」、「へび少女」。
やたら怖かった。
少女漫画誌すげえ。
それからは何作か読んだのだが、楳図さんは怖い漫画家という認識しかなかった。
「漂流教室」などの評判とかを友達から聞くのだがあまり手を出す気にならなかったのね。
大学に入り、「劇団暫」に参加するようになってから「少年サンデー」連載の「まことちゃん」がやたら面白いと稽古場で聞いた。角替和枝さんからだったと思う。
「知らねえのお? ダメじゃん! グワシ!」
読んでみた。なんじゃこれ!?と思った。
アナーキーな笑い。ハーポ・マルクスよりアナーキー。コドモってアナーキーだよな。

「暫」の事務所は高田馬場にあった。さかえ通りを抜けた先の川沿いのマンションの一室。公演のない時にも稼働していて、着ぐるみショーやサーカスなどの仕事を斡旋していた。時々学生身分の自分にも仕事をふってくれた。ありがたかったがシティボーイズになる3人や角替さんや石丸謙二郎さんより後回しだったな。
制作は市村朝一さん。後に田宮二郎のマネージャーになり、東宝芸能で斉藤由貴さんを売り出し、映画のプロデューサーになり、舞台のプロデューサーになる人。目先のきいた方ですよ。(ちなみに青山で「カルチェラタン」という素敵な店も経営しているので行ってください。美味しいですよ。)
ある時、しばらく舞台もなくバイトに明け暮れていた自分に市村さんから電話があり、次の公演がきまったから出るか?とのこと。
是非是非。何作目かの「花咲村シリーズ」をやるとのことだった。
稽古をしている最中に、楳図かずおさんが出演すると聞いた。
なんと!
市村さん、楳図さんの事務所が高田馬場にあったので、ダメ元で訪ねてコネクションを作ったとのこと。
それまでは着ぐるみショーは、「東京ファミリー企画」という会社の下請けが多かったが、今度は自分で企画してショーをやると。
で、楳図さんにかけあって「まことちゃんショー」をやるんだと。その交渉中に芝居に出ませんか?とオファーしたら楳図さんが快諾したと。
凄いことになっているぞ。
稽古が始まってチラシもできた。


チラシ。なんとまことちゃん!
タダで書いてもらったと聞いてまたびっくり。
市村さんのお供で一回だけ楳図さんの事務所に行ったこともあった。緊張して全然中の様子は覚えてない。
稽古が進んで楳図さんが来てくれる。
バイクで送ってもらったとのこと。
乗り物に乗ると必ず気持ち悪くなる。電車も車もダメ。だがバイクだけは平気らしい。
横尾忠則さんの追悼ツィート(古いね)を読めば、横尾宅から何時間もかけて歩いて帰っていたという。

台本のない舞台。稽古で一緒に作っていく。
楳図さん、40代半ばだったろうけど子供みたいにウキウキしている。楽しそう。
ここでズッコケてみましょうか?
なんて言うと派手にズッコケてくれるのだが、頭を床に音が出るくらい後頭部を派手にぶつける。
何度も「そこまでやらなくていいですから。」と言っても派手にぶつける。
踊ったりはできるけど受身なんかはとったことないんだろうしなあ。乗り物酔いしやすい体質もあるかもしれない。クビ座ってない?
結局危ないのでズッコケはカットした。
舞台で楳図さん作詞作曲の「ビチグソロック」を歌ってもらうことになった。
自分は「つかこうへい正伝」の長谷川康夫さんと一緒にバックダンサー。石丸さんもいたかも。


振り付けは「劇団鳥獣戯画」の知念さんだったと思う。
空き時間で皆んなと話もした。
「女性、なんとなく苦手なんですよねえ。」
理由も聞いてみた。
学生の頃、駅で飛び込みに遭遇した。バラバラで酷い状態になっているのを駅員さんが処理していた時、女子高生たちがニコニコ笑いながらそれを見ていた。
それから女性が怖くなった、と。
えー?そんなことあるかなあ。状況がよくわからないが、楳図さんの記憶だからね。

楳図さんと一緒の舞台造りなんか凄い体験だったと思うのだが、この公演のことは記憶が曖昧。なにしろ40年も前のことだし自分、ペーペーだから必死にやってたからね。
稽古が終わると名残惜しそうに帰っていかれたなあ。
「まことちゃん」の中で1コマだけ公演の告知もしてもらった。
が、客席が超満員だった覚えがない。
その後自分は、知念さんの「鳥獣戯画」に誘われて、後にパルコパート3になる駐車場のテントでやる演劇フェス的な公演に出る。揉めたフェスだった。
これはまた別に書きたい。団交の席での野田秀樹さんや木場勝己さんのことを。

で、そのあとまた楳図さんと何度か会うことができた。
「まことちゃんショー」にお呼びがかかったのだ。自分は「まことちゃん」役。知念さんが「ビチグソ」役。
楳図さんも参加してコントみたいなことをやって最後は楳図さんの歌で締め、サイン会になる。子供たち大喜び。大人もね。
何しろ「まことちゃん」の楳図かずおさんが目の前でサインと絵を描いてくれんのよ!
これで何ヶ所か地方へ行った。
新宿サブナードのイベントスペースで楳図さんのライブをやった時はバックダンサーで出演した。ツイストだぜ。革ジャンと無理矢理リーゼント。
この頃の楳図さんはけっこう歌の仕事してたな。
八王子サマーランドでやった「夕焼け祭り」にも楳図バンドはゲスト参加した。自分もバックダンサーで行くことになった。
革ジャン、リーゼントでツイストね。バカウケだった。
「夕焼け祭り」は久保田真琴さんが言い出しっぺの、夏フェスの先祖みたいなもの。この時は楽しませたもらったなあ。
出番前に「一風堂」をバックにしたミックジャガーみたいに歌う山本翔やら白竜バンドやらを観た。夕焼け楽団も観た。
ド緊張しながら楳図さんのバックダンサーをやり、終わったらまたライブを楽しめた。
柳ジョージがやたらかっこよかったっす。
とにかくかっこよかったっす。
カルメン・マキにも痺れたっす。
他の印象が残ってないほど。
もったいない。
楳図さんと最後にご一緒できたのは静岡での「まことちゃんショー」。
その後自分には人力舎に入った。楳図さんとの接触は全然なくなってしまった。
20年以上たった後、吉祥寺でお見かけした。声はかけなかった。
もう覚えてらっしゃらないだろうと思った。声をかけなければ絶対目が合わない人だし。
その後も何度もお見かけした。中道通りの洋食屋でスパイスをかける後ろ姿は百式観音みたいだった。着ている服で楳図さんだとわかった。マルイの前で不審な動きをしていた。「まことちゃんハウス」を見にいったりもした。青空をバックにするととても綺麗な家だった。
楳図さんとはこれくらいしか記憶にない。
作品はいくつか読んだ。どれも精緻なSFだった。先が読めない、ひとつ上の想像力。
なんだか凄い人だったなあ。強烈な印象がずっと残っている。
あの家はどうなってしまうのだろう?

妄想してみる。
連載が終了した時点から「まことちゃん」の時間が動き始めて、リアルに成長していった。
楳図さんが逝かれた今年。まことちゃんは47、8歳になっていた。
思春期に昭和が終わりバブル期になりそれが崩壊し、青年期にさしかかる時に震災とオウム。
どんな人生を歩みどんなオッサンになっているんだろう?
これからどんな人生を積み上げていくのだろう?
それとも楳図さんの死を知って、「みんなに見守られながら過去の世界へ旅立っていく」のだろうか?
なんてね。

ご冥福をお祈りします。
サバラ!

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