シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのしち

やや離れた所から曖昧になってゆく記憶を辿っている。
あ、あくまで記憶ですからね。記録じゃありませんよ。

「スネークマンショー/楽しいテレビ」。出演は伊武雅刀、阿藤海、竹中直人、シティボーイズ、中村ゆうじ、伊藤正幸(いとうせいこう)。脚本が宮沢章夫。
桑原茂一さんや、「スネークマンショー」に関してはもうすっかりコメントの余地もないほど有名ですよね。
自分はラジオ関東(現ラジオ日本)の時には聞いてなかった。評判を耳にして聴き始めたのはTBS時代の「生島ヒロシ 夜はともだち」の中の15分コーナー「それゆけスネークマン」からなのよ。
音にこだわったギャグが多くて好きだったなあ。笑いって言葉だけじゃあないんだよーって友人に話していた記憶がある。タブーに挑戦みたいな感じもあったしね。
後に山下達郎が「オールナイトニッポン」で、あのギャグは米国の西海岸のマリファナ文化どっぷりコンビ「Cheech&Chong」のパクリですぜって、元になった音源を番組でたっぷりかけていたのを聴いてこりゃまたビックリ。山下さんもよくあんなのOAさせてたなあ。
後に、あれは「モンティパイソンとチーチ&チョンをパクらせてもらった」と桑原さんもインタビューに答えていた。
てかこれ、リミックスでしょう。
このだあいぶ後、茂一さんは「日本選曲家協会」なるものを立ち上げるが、なるほど、「作曲家」ではなく「選曲家」だよ。チョイスしてアレンジすることも創作の一種なのね。「サンプリング」なんて言葉もなかった時代なのにい。
その何年か後(どうも「その後」とか「何年後」とかばっかりで申し訳ない)、茂一さんと会った時、
「昔のさあ、トレンディドラマってあったじゃない。あれに、外観とか別撮りして、現代に合った言葉でアテレコつければ充分今でも使えるんじゃないかと思うんだよ。」と言っていた。なんて面白い発想なんだろう。
これも「リミックス」とか「カバー」とかだよね。
さて「楽しいテレビ」。「スネークマンショー」と銘打ったものの、小林克也さんが出ていない。何らかの事情があったとは思うが、ほとんど「シティボーイズショー」にゲストと演出家が加わっただけみたいな印象を受けた。当時はね。
これが違ったんだよねえ。

この作品。発売は84年2月。準備期間を考えると制作のスタートは83年秋くらいなのかしら?
とすれば「照れ屋の宮沢君」のころには企画はスタートしているはず。
宮沢さんは、ビデオ化するにあたって伊武雅刀さんに呼ばれて参加したらしい。
前述、読売テレビ「どんぶり5656」では、ブレーンに中島らもさんが入っていた。以前かららもさんは、「東京はいろんな笑いがあっていいなあ、シティボーイズみたいな云々。」と言っていたらしいからキャスティングは理解できるが、なぜ竹中直人さんなのか?なぜシティボーイズなのか?
ネタをそのままやらせるわけではない。芸人くさくなくて演技力があるからなのか?
そのへんの詳しい話を茂一さんに聞いてみたいが、あの方、「過去はあまり振り返りたくない」って言ってたし、今は京都に住まわれているはずなので世田谷時代のように気楽に聞きにもいけやしない。とにかく茂一さんと宮沢さんはモンティ・パイソン好きで共感したと思われる。「シティボーイズショー」で作っていた笑いが好きだったのかしら?

シティボーイズに転機をもたらした人たちはたくさんいるだろうが、最初期に長谷川康夫さん、その後に宮沢章夫さん、そして桑原茂一さんともうひとり、いとうせいこうさん。
その4人があたえた影響が最も強く変化をもたらしたんではなかろうか。もたらしたと思うよ。
いとうさんがあちらこちらで喋っている。
いとうさんは学生時代、「タモリ研究会」ってのをつくっていた(今ではそのことは語られていないが)。
で、「タモリのオールナイトニッポン」の制作に関わりたいとニッポン放送に行ったら、構成作家の人に(多分黒木一由さんだと思うが)、「面白い奴がいるから会ってみない?」と誘われた。で、会ったのが宮沢章夫さんだったとのこと。
その頃、いとうさんはあちらこちらでタモリさんの「密室芸」的なピンネタをやっていたのだが、それをファッションメーカー「JUN」の人が映像に撮っていて、茂一さんに観せたのですと。さっそく茂一さん、オーディションにいとうさんを呼ぶのね。なんで欲してもいないのに呼びつけるんだよ、と文句言ってやろうと思って会場のホテルへ行ったらそこに宮沢さんがいて運命の再会って話ね。その場でピンネタなんかやらずに「あんな笑いが面白い」とか「こんな面白い芸人がいるじゃねえか」とか喋りまくっていたら合格、是非一緒にやってみたいということになった。オーデイションでは、「口数の多い若い奴」が欲しかったんだと後で聞いたとか。
いとうさんも茂一さん宮沢さんと笑いのセンスが近かったらしい。モンティ・パイソンがそれだろう。
モンティ・パイソンはテレビ東京(当時は、東京12チャンネル)の、自分の記憶ではたしか「ザ・テレビジョン」という番組枠で不定期にやっていた。これがその枠の話はどこにも書いてないんですよお。記憶正しいのかな?
この枠、他の週には「ザ・ゴングショー」なんてのをやっていて、チャック・バリスっていうプロデューサーが司会もしていて、「なんて米国の笑いは低俗なんだ!でも好き」なんて思っていたら日本でもマネする番組がぞくぞくと生まれていきやがったなあ。
宮沢・いとうはそのオーディションをやったホテルで何日もネタを考えさせられたので仲良くなっていく。お互いにおおいに刺激しあったろうねえ。
いとうさんがシティボーイズと初めて会ったのは「楽しいテレビ」のクランクイン前の会食会。きたろうさんの隣に座ったのでいとうさんはきたろうさんを「師匠」と呼び始めることになる。これもいい出会いだった。

ここから「ドラマンス」の話。
さて、この後5月の「シティボーイズショー/ハワイの宮沢君」公演後の5月30日に、原宿「ピテカントロプス・エレクトス」にて、竹中・シティボーイズ・中村有志・いとうせいこう・松本小雪、作家・宮沢章夫で演劇ユニット「ドラマンス」を旗揚げする。
「原宿ピテカン」に関しては膨大な脚注が必要になるほどの、クラブ文化のみならず、いわゆるサブカルに影響をあたえたと言われているのですよ。むしろ「クラブ」なんて概念はなかった時代。オーナーは桑原茂一さん。82年にオープンして84年にクローズした。
なんか凄かったらしいですよ。名前聞いて「へーーー!」となる人がたくさん来ていたんだとさ。文化的に最先端だった人たちのみならず、バスキアとかキース・ヘリングとかデヴィッド・バーンとかも客で来ていたし、編集工学研究所所長で今や角川武蔵野ミュージアム館長の著述家、松岡正剛さんは「ピテカン」で、客で来ていたIGGY POPと話をしたから「遊」の閉刊を決めた、なんて逸話もあったりする場所なん。
藤原ヒロシさんや高木完さんもDJプレイしていたし、音楽家の桜井圭介さんも勤めていて、DubMasterXさんもミキサーでいたみたい。
これ全部桑原茂一さんがプロデュースしていたのかあ。
この方がシティボーイズにオシャレな空気を付け加え始めていくのよ。
そんなことになっているなんて、演劇宝塚読書バイトに明け暮れていた自分はまったく想像もつかなかった。
自分が人力舎でマネージャーになってから驚いたことは、定期的にシティボーイズの衣装提携をしてくれてる「ABAHOUSE」の倉庫まで衣裳を受け取りに行かされたこと。「ABAHOUSE」が全然有名じゃない頃ね。
え!? あの三人が衣裳提携? 貧乏演劇青年だった三人が? おしゃれな大竹さんはともかく、きたろうさんなんか新宿駅で下駄はいて詩集売っていた人なんだぜ!
これも桑原さんの口利きだったんだ。おかしいと思ったんだ。急にオシャレっぽくなりやがってえ。

「ドラマンス」の話に戻ってみる。
さて宮沢さんといとうさんが例のホテルで缶詰になってネタを書いている時、何回も茂一さんに書き直しをさせられる。
「この曲に繋ぎたいから」というのが主な理由。オチなんか関係ない。お笑いのセオリーとかも関係ない。「三段落ち」も「天丼」も考えなくていい。曲に繋ぐ空気感が第一。
DJじゃん。まずは選曲家なんだ。
茂一さん、お笑いに関しては全くの無知だった。ただの音楽好き。
ただモンティパイソンなんかの繋ぎ方が魅力的に感じたんだ。反復の面白さを感じたからの「スネークマンショー」だったんだ。それが宮沢さんにも影響を与えていくことになる。同時に茂一さんの人脈も取り込んでいく。
「ドラマンス」一回目は5月30日。「連続ドラマンスvol.1/ワンペンロム・コンベイヤー」。
「シティボーイズショー」から引き続いての舞台監督・比嘉くんによれば、開演が4時間おした(遅れた)とのこと。
よ、4時間っ!? 考えられない。嘘でしょ、と思った。
比嘉くんによれば、茂一さんが、
「欧米ではその時間も客は楽しんでくれている。」
と言っていたとのことで。
いんやあ、感覚が違う、欧米じゃねえし、日本だし、客が暴動起こしたら誰がおさめるんだ、国鉄がそんな感覚だったら松本清張は「点と線」書いてねえぞ、なんて思ったよ。
2回目は6月29日「vol.2/インドラのバングース」。すぐだったね。書き溜めてたんだね。
そして3回目は9月。竹中さんの名前をメインに出した「DRAMANCE FIRST TOUR STARRING NAOTO TAKENAKA」。日本青年館を皮切りに仙台・大阪・愛知・京都を回った。
同じ9月25日。レコード「スネークマンショープレゼンツ かわったかたちのいし/竹中直人」が発売される。桑原茂一さんプロデュース。ムーンライダースがバッキング。細野晴雄、高橋ユキヒロ、立花ハジメ、鈴木慶一らが編曲やらで参加している。豪華じゃないですかあ。茂一さんの人脈!
でもあまり売れなかったと聞きましたよ。
竹中さんの歌の合間にコントがはさまれる。コント部分でシティボーイズ、いとうせいこう、松本小雪も参加。もろドラマンスですよねえ。なぜスネークマン名義なのか? 大人たちが話し合ったのね。
これ、この構成はあれですよ。YMOの「増殖」ですよ。80年に発売された。桑原茂一プロデュース。
これで思い出した。
80年か81年、きたろうさんに舞台やるから観に来いといわれて久しぶりに劇場に向かった。人力舎に所属したあとだったと思う。
新宿のACBと記憶している。ゲストは何組もいたが失念。覚えているのは丸山オサムさん。美空ひばりとか玉音放送とかのモノマネを完璧にやる方。一度浅草東洋館で観ていたら15分の持ち時間を60分やっていてひやひやしたことがある方。自分の持っていた新潟放送ラジオの仕事をブッチャーブラザーズに与えてその後ブッチャーブラザーズは何年も新潟放送ラジオでレギュラーをいただけたご恩のある方。
で、この時、客入れと合間合間にこの「増殖」が会場に流されていたわけですよ。
ゲストとシティボーイズと会場の雰囲気と客層と音楽とのギャップつったらさあ…。
終演後きたろうさんに、
「あれ、YMOだしスネークマンショーじゃないすかあ。なんで?」
なんて言ったら、
「知ってるの? お前え、あれ聴いてない奴ぁ、もう口きいてやんないよ。」
と言われたのよ。あんな顔しているけど、きたろうさんのセンス! 流石っす。
そう思った。

つづけ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?