澤田隆治さんの個人的な記憶 そのに
2002年、澤田さんからお呼びがかかった。
社長に連絡があったのだが、
「お前行ってこい。頼み事あるみたいでよお、俺が行ったら逃げられなくなるからさあ。」
要するに付き合うのが面倒だからでしょ?
「あの人に会うの、緊張するんですよ。」
「俺もだ。」
次の日神楽坂にある東阪企画へ向かった。
神楽坂は高校時代同級生の牛腸くんが住んでいた街。ここでよく遊んだなあ。
早めに行って「三好弥」で日替わり定食ご飯大盛り。エネルギー充填しとかないとパワフルなレジェンドの迫力に飲み込まれるからね。
緊張していた。
会長室に通される。
膨大な量の本に賞状にトロフィー。そして「てなもんや三度笠」などの番組のビデオ。
「凄いですね。子供の頃観てました、『てなもんや』。お宝ですねえ。」
「それね。権利全部買い取ったんだけど、それ、どうしていいかわからないんだよねえ。なんとかしてくれよ。」
と、戸惑いの表情。
オイラなんもできねえっす。
でもすごいなあ。少しずつ緊張もほぐれていく。
雑談の後。今回の本題は、「横浜にぎわい座」で若手のお笑いのプログラムを組みたいということだった。
「にぎわい座」は横浜の野毛にある演芸専門の劇場。横浜市が建てた。
ここには昔はたくさんの芝居小屋とか寄席のあった場所。それが廃れてしょぼい飲屋街になっていたのをIKUO三橋さんが大道芸フェスティバルを始めてから盛り返したらしい。高校の部活の先輩がこの近くに住んでいて遊びに行くと、あそこには近づかないほうがいいよ、と言われていたのを思い出す。
その「にぎわい座」に澤田さんは協力をしていたのだった。お金もらってやってないらしい。
既に「おぼん・こぼん」やら「大助花子」などのベテラン勢の企画はやっていたが若手だけというのはまだ手をつけてない。しかし若手なんかどう手をつけたらいいか分からないという話だった。
すでに東京は若手ライブの数も多くなっていたし、客も多く集めていた時期。
「年寄りしか客が来ないから、若手の企画で若い人たちを集めたいんだよ。」
当時の館長は「ロッテ歌のアルバム」の玉置宏さん。落語方面に造詣が深く、席亭さんたちと仲良しだったと聞く。
だから落語のプログラムばかり多くなっていたのだと。
澤田さんはそんな状況になっていることに忸怩たる思いだったらしい。大阪では落語も漫才も奇術もなんでも同列の存在だものね。
落語以外が一段低い所に置かれて阻害されているように思えて嫌だったんじゃあなかろうか?
自分は子供の頃、落語大好きだったんだよね。小学校3年生の時、柳亭痴楽のモノマネで友達ができたくらい。「破壊され顔の持ち主」「痴楽綴り方教室」、痺れたねえ。雑誌「ボーイズライフ」に載っていた落語を丸暗記してクラスの「お楽しみ会」で発表してみたり(途中で思い出せなくなり中断)。古今亭圓生の「死神」に感動してマネしてみたりしていた。
演劇に目覚めてから全然見なくなりマンザイブームで落語のスピード感が物足りなくなった。
人力舎に入った後、圓楽一門の寄席「若竹」に「ミスター梅介」が呼ばれて行った時は、高座を観るより楽屋で飲んだくれている赤塚不二夫さんの様子の方が面白かった。
「サムライ日本」がテレビ東京の正月生放送番組で浅草演芸ホールに出た時、出番終わりの「サムライ日本」に、ある噺家が面と向かって、「ああドタバタ動かれちゃ埃っぽくてかなわねえよ」と言ってきて腹が立った。香盤決めたスタッフに行ってくれや。じゃあトリにすればよかろうもん。
そしてTBSで「ヨタロー」なんて番組が始まった後は全然落語は観なくなってしまった。
「おじゃまします」終了後、「花王名人劇場」の収録もしていたが、コメディシアターは何もやっていない日が多くなった。
そこで唐木さん(多分)から「空いている日に何かやってくれないか?」と話をもらう。
玉川社長が動いて劇団とか紹介してみたりした。
そしてマルセ太郎・講談の神田山陽・大竹まことでここでトークライブをやろうということになった。
「んでよお、おまえよお、山陽さんとこ、打ち合わせがてらチラシ持って行ってぇ。」と言われ新宿末廣亭まで行ったのだ。
山陽さんの出番が終わり楽屋で待つ。楽屋の上座は見たこともない噺家たちが占拠していた。山陽さんがくる。挨拶。着替え始めたのは廊下と楽屋の境目。そこで着物をたたみ始める。
おいおい、場所空けろや噺家あ!人間国宝みたいな人だぞ!
いんやあこないだ行ったソープの女がよお云々。ケッケッケと下品な笑い声。
なんだ?品のない話しかしてねえぞ!気ぃ使えや噺家あ!どんだけ偉いとおもってんだよお!
最後までこちらは無視。何様じゃい!
あ、ついつい興奮しちゃったよ。
いや、今はそんなこと全然思ってませんよ。落語、好きです。芸能として尊敬してます。まあ、当時はそんなこと思ってたみたいです。
そんな憤りを澤田さんに言ってみた。
東京の落語家は席亭に守られているからというのが澤田さんの答えだった。
ただでさえ高い東京の地価、固定資産税。なのに入場料を上げずに続けている。
客が少ない時には「わり」=ギャラを席亭(場合によってはトリの落語家も)が自腹をきって若手に払ってあげることがあったらしい。
つまり席亭は身銭をきって落語を守ってきたのだと。
だから席亭の発言力が強いんだと。
よって落語の地位はたかくなるのだと。
なるほどね。
そんなことも含めて、「ここに風穴を開けたい」ということだった。
ジジイ、まだ戦っているぞ!やっぱ凄い人だぜ。
「とにかく予算のこともあるので一度会社に持って帰って相談します。」と言うと、
「限度はあるけどお金のことは心配しなくていい。」と言われた。劇場からお金もらってないのに?
事務所に帰り話を伝える。
「協力してあげなさあい。」と一言。
でも、東京でのライブについている客を横浜まで呼べるのか?神奈川の客をゼロから集められるのか?
つづく。