セルジオメンデス
セルジオメンデスが亡くなった。
小6か中1の時初めて聴いた時、なんだかリズムが新鮮でワクワクして、女性ボーカルやサウンドがオシャレで、「これ、知ってる?」なんて友達に聞きまくった。
同級生の富取くんちへ何人か集まった時に、そのレコードがあったので驚いた。
富取くんはなんでも知っていたのだった。
その後も「フールオンザヒル」やら「ルックオブラヴ」やらバカラックやビートルズの曲の斬新なアレンジで心掴まれた。
そのころはどんどん新しい音楽が生まれていった時代。ストーンズやらツェッペリンやらジミヘンやらマイケルブルームフィールドやらを聴き込むようになってセルジオメンデスなんて聴かなくなっちゃった。
そして1984年。大学を出た後なんの職にもつかずバイトに明け暮れていた時だ。
大道具の仕事をもらっていた会社からオファーをもらう。
「全国ツアーがあるからやらないか?」
「誰ですか?」
「セルジオメンデス。知ってる?」
「知ってるさあ!昔好きだったんすよ。
いやでもなにするんすかあ?」
「小林行くから言われたことやっとけ。」
「そーゆーのやったことないですけど。」
「やってるうちに覚えるよ。」
てな感じで行くことになった。
セルジオメンデス。その時なんかオリンピックのテーマ曲みたいなやつで小ヒット的な曲を引っ提げての来日だった。
んで、小林さんというのは、当時のバイト仲間、ていうか先輩。「ブリキの自発団」という劇団にいた人だ。そこは元々は「摩呵摩呵」という劇団が発展したもの。PKディックの作品にインスパイアされた作品なんかやっていて観に行ったこともある。銀粉蝶さんや片桐はいりさんを輩出した。けっこう人気あったんですよ。
で、現場へ。昭和女子大の人見記念講堂。
広い。
舞台監督の人。怖そう。オレが経験が少ないと看破してなのか、一から教えてくれた。
地がすりやパンチカーペットの貼り方や平台でドラム台を作ったりなんやかんやは知っていたが、バトンの上げ下げみたいな大きな劇場にしかないものの勝手がわからなかったのね。
「こんなんは足使って止めんだよお!シロウトだなあ!」
みたいな叱責をたくさんもらった。
もひとつもらったのがスタッフジャンパー。かなりしっかりしたやつ。真っ赤。英字でセルジオメンデスって刺繍がある。これ、今でも持ってる。今でも着れる。

照明、PA、楽器も含め設営が終わるとリハーサルが始まる。ていうか音出し。セルジオメンデス以外のバンドメンバー。
専属なのかな外人のPAさんがスタスタと舞台に上がりキーボード前に座って「STUFF」の曲をやり始めた。う、うまい! バンドメンバーが合わせていく。何曲か演奏するんだが、セルジオメンデスの曲は全然やらないぞ。ツアー各地でみな違う曲をやっていた。ジミヘンの「LITTLE WING」なんかは盛り上がったなあ。
なんでも演奏できるんだね。海外のミュージシャンの技術凄えと思った。
で、セルジオメンデス御大登場。
コーラスのおねいちゃんを従えて、一曲だけリハして終了。
本番前はバンドメンバーの足元を懐中電灯で照らして袖まで誘導することも仕事。
ヤリチンそうなギタリストがタバコ吸いながら歩く。
禁煙だぞコラ!って英語で何と言えばいいかななんて思ったが、黙って吸い殻を受け取っておいた。これ毎回。
もうひとつの作業がライブの最後に紙吹雪を降らすこと。
これ、バトンに吊った「雪籠」と言われるものを袖からロープを引っ張って揺らし、網の間から紙吹雪を降らすもの。やったことないわ。
難しいのよ。上手下手で2人で息を合わせなくちゃいけないし、均一にやらなくてはいけないし。
撤収。紙吹雪の掃除が大変でだいぶ時間をくってしまった。
舞台監督からダメ出しをもらう。怖い。
そしてセルジオメンデス本人から、もっと紙吹雪を大量にしろと言われたとのこと。
紙吹雪も作るの大変なんだよ。大きすぎると籠の網から落ちないし、小さすぎるとキッカケ以前にパラパラ落ちてくる。何枚か重ねて切るとそれぞれがくっついちゃって塊みたいに落ちてくる。ボタっよりもヒラヒラさせんといかんので、ひたすら紙吹雪をスリスリしてばらけさせる作業。
あいた時間にひたすらチョキチョキしなくちゃダメになってしまったの。
このツアーは東京あとに神奈川大阪福岡名古屋また東京とまわり、ラストは札幌。
ずうっと紙吹雪つくっていた気がする。
福岡から他のスタッフさんと仲良くしてもらった。照明のオッサンによく誘われたがこれまたこの方美味しい店をよく知ってるのよ。
小林さんは酒癖悪いのを自覚しているのであまり付き合わなかったなあ。
各地の美味いもの巡り。特に福岡の刺身居酒屋と屋台、札幌の炉端焼きが美味しかったなあ。アフターは楽しい記憶しかない。
だが事件は名古屋の夜に起こった。
舞台監督から部屋に呼び出しがかかった。
小林さんと2人で来いと。
缶ビールが用意してあった。
まあ飲めよ、と。
それからネチネチと説教が始まった。
いわく、仕事への熱意が足りない、と。やる気あんのか?と。
あらららあー。
一生懸命やってますがな。
でも、うちらは大道具やイベントの会場設営やらで生活費を稼いでいるが、小林さんは本職は役者さん。俺も他にやりたいことが見出せないままこの仕事をやっていた。
そのことは確かだったよ。
この仕事が一番ではなかったよ。
それに自分たち、いやそれと同じような境遇でこの業界の仕事をやっている人間たちは、生活のためにやりたいこと以外で生計を立てていることに、ある種のコンプレックスを持っていた。
でも一生懸命やっていたのよ。
雑多な人間が集まっているところでのコミュニケーションは「笑い」でとることが多いでしょ。
しかも演劇人なんかはそれが主流だった。
小林さんも俺も仕事の合間に冗談ばかり言っていた。
それが熱意が足りないと見えたのか?
それが気に食わなかったのか
舞台監督は俺の方をほとんど見ないままだった。
そんなつもりないですよお、と小林さんがいくら言っても聞いてくれない。
小林さん、泣き始めた。
「ちゃんとやりますからあ。」
2時間くらいたってようやく解放された。
部屋に戻る。相部屋だから。また飲み始めた。
「大丈夫っすか?」
「何があ?」
「だって泣いてたじゃないっすかあ。」
「そうでもしなきゃ解放されねえだろう。」
演技かい!
本気に見えたんだけどなあ‥。
次がツアー最後の日。
いつものようにすんげえバンドリハーサルの後、セルジオメンデス御大の入りが遅れていると聞く。
空き時間。
セルジオメンデス御大入りましたとの報がある。
毎回顔を見る呼び屋、ナントカ音楽事務所の人が会場に来る。でっかい声で、
「いんやあ、昨日御大を吉原連れて行ったらさあ、『ステレオ!ステレオ!』ってさあ、女の子ふたり要求するのよお。まいっちゃってさあ。元気だよなあー、あのオッサン!」
なんて言ってた。ステレオ。左右からね。おねえちゃんが。
何が一生懸命なのかとか仕事への向き合い方とかバンドリハーサルの凄さとか各地の美味しいものとか紙吹雪地獄とか舞台監督のリーゼントヘアーとか小林さんの嘘泣きとか全部とんじゃった。
セルジオメンデスはステレオが好き。
そのことばかりが思い出される。
そして小林さんもだいぶ前に亡くなってしまった。
ふたりのご冥福をお祈りします。