澤田隆治さんの個人的な記憶 そのご
曖昧になっていく記憶をたよりに極私的な歴史を
まだまだ続く「にぎわい座」の話。
チラシは四日間の企画を1枚にして各月ごとに作ることにした。それをそれぞれのライブで配る。
まずはライブについている客を横浜まで引っ張っていくつもり。
が、来てくれるのか?
チラシ代も澤田さんに請求。
澤田さんにはメディアへのアプローチをお願いしていたが、神奈川新聞だけが情報を載せてくれるということだった。
一社だけかあ。
自分が初めてライブ制作に関わったのは85年の 渋谷ジァンジャンの「シティボーイズショー/サイパワーでゴー!ゴー!ゴー!」。
宣伝しろということで、メディアへはDMを送り電話かけまくりアポをとってチラシと招待券を持って足を運んで説明をしてお願いをしてみた。
客はもうついている。でももう一部のファンだけがくるような公演が嫌だった。
小劇場界ってそうじゃん。演劇ファン、小劇場ファンだけがあちこちの劇場を回遊しあっているのを散々見てきたのだよ。
嫌だったんだよね。どこの劇場行っても同じ顔を見かけるし。こないだ観た出演者が今度は客になって隣で観ている状態。わかる?
公演を赤字にしないために、小劇場の多くの劇団に「ノルマ」って制度があってね、出演者は自分でチケットを売らなければならない。必然的に知り合いに来てもらうことが大半になる。てことはどこも同じような顔ぶれになる。友達の友達はみな友達。
当然どこへ行っても同じ顔を見ることが多くなるということだ。
嫌だなあ。発展ないよね。新規の逆を開拓しないとね。だから宣伝を頑張った。
いやまあシティボーイズはある程度固定客はいるし優先度はそれほど高くはないが、知らない人たちに名前を知ってもらうにはこんな舞台の宣伝は有効なのですね。
それはさておき。「にぎわい座」でそんなカロリーを使う気にはならなかった。あくまで依頼されたからやることにしたのだと思っていた。その時は。
さて、第一回目の「にぎわい座」若手ライブはさんざんな客入りだった。
400人くらいのキャパシティなのだが3、40人ずつしか入らなかった。
「新宿Fu-」とかでやっていても席は埋まらない。なんとか形にはなるけれども。
内容的には良かったのだが澤田さん、厳しい顔。
申し訳ない、という気持ち。
そんなもんでしょ、という気持ち。
協力してあげてるのになんだその顔は、という気持ち。
もっとメディアに強くアピールしてくれよお、という気持ち。
自分たちの力不足なのかなあ、という気持ち。
こっちは一生懸命やってんだよお、という気持ち。
「初回にしてはまあまあの入りでしたね。」
なんて言ってみたいが言えなかった。
「これ、チラシをまくとかしないとだめだな。」と澤田さん。
マジかよ。
SNSもない時代。「ぴあ」とかの情報誌も廃れていた。
横浜でチラシをまいて横浜の客を作らなくてはダメなのか。
土地勘もないし、劇場の情報もなかった。
何かアイデアはありませんかねえ、と聞いた。
「近くに観光スポットが多くあるので、そこでチラシをまいたらどうかな?」
澤田さん、途方に暮れるようなことを言い始めた。
どこか業者に頼んでみてはどうか?と言ってみた。
が、懸念していたように横浜の業者は圧力なのかわからないがあまり協力的ではないとのことで。
自力で?
「バイト代は出す。」
太っ腹ぁ!
でもねえ、こういったライブは立ち上げから大入満員なんてことはないのよ。テレビに出まくっている芸人が出演し、バンバン宣伝しまくらないと無理なんです。これから口コミやらで認知度を上げ徐々に増やしていけばいいのになあ、あせることはないのになあ、と思った。
結局チラシまきは若手芸人さんたちにお願いすることになった。
特に関口さんのところの若手が積極的に手伝ってくれたことがありがたかったなあ。
5月とはいえ炎天下の下、赤レンガ倉庫、みなとみらい、若者が集まりそうな場所の近所でチラシをまいてみた。土日だけ。
ハードだった。若手芸人たちはヘトヘトだった。桜木町駅前の居酒屋で奢ってやったが、口数は少なかったな。タコワサビばかり食べる芸人だったなあ。
もっと効率のいいやり方は思いつかなかったのか?
この辺の記憶は曖昧なのね。月の半分はお笑いライブに行く。ライブの準備に時間を取られる。チラシまきに付き合ってみる。他にも仕事はあったしね。
毎公演客にアンケートを取っていた。「この公演を何で知りましたか?」の項目で、「チラシで」のところに丸がつけてあると少し嬉しかったような記憶はある。それと炎天下の赤レンガ倉庫前の景色の記憶。
だがやはり劇的に客は増えることはなかった。
7月のライブが終わったあと、事務所で社長が、
「澤田さんから電話があった。次で終わりだってさ。」
そうなのか。たった4か月だったなあ。
俺に直接言ってくれればいいのになあ。
「お金が続かないんだって。」
そうなのか。やっぱりだ。
だいぶお金使わせちゃったなあ。
チラシまきのバイト代も含めて制作費全て澤田さん個人の持ち出しだった。会社でやっていたわけじゃあなかった。
東阪企画の澤田さんの右腕の畑岡姐さんが観に来てくれた時は、
「ありがとね、わがままに付き合ってもらって。」
なんて言われた。
むしろ東阪企画本体は非協力的だったのように思う。ご隠居さんの道楽みたいな感覚だったのかい?
会社をあげて応援してくれよ。
澤田さん個人の思いだけで「にぎわい座」で若手芸人の企画をやりたかったのだ。個人の力だけでは無理があると思うが、席亭を含めた古い東京の演芸体質に一泡吹かせたかったのだろうと思う。
意地みたいなものだろうなあ。
「にぎわい座」を含めて四面楚歌の状態で徒手空拳の闘い。
無理しちゃってさあ。負けちゃったなあ。負けちゃったけどかっこよかったなあ。
その後の「にぎわい座」は、地下に「野毛シャーレ」という小劇場もオープンし、漫才協会も定期的に公演を打つようになり、若手落語家にも門戸を開いていき、横浜のイベント会社ともうまくやっていくようになっていった。あくまで個人の感想ですが。
澤田さんが劇場オープニング当初から関わりやってきたことは今ではほとんど語られていない。
Wikipedeiaにも全然書かれてないのよ。
あんまりじゃあん!
その後「お笑い健康学会」とかでお名前をお見かけすることもあったが、この「にぎわい座」の一件から澤田さんとはほとんど付き合いはなくなってしまった。
最後にお会い、いや、お見かけしたのは2018年。
以前非常に親しくさせていただいた三木プロダクションの社長の葬儀に行ったときだった。
葬儀を仕切る立場なのか、BのS会長と並んで参列者に黙礼する姿はなんだか記憶にあるよりも小さく見えたなあ。
今だったら「にぎわい座」、もっとうまくやれたなあ…。なって思ってみる。まだ若くて知恵が足りなかったんだよなあ。予算内での最適解を導き出しますよ。
それが悔やまれますよお!澤田さあん!
こっちも大人になったんだからね。
そりゃあ、あたり前田のクラッカー!
終わり