シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのさん

だんだんと曖昧になっていく記憶をたどって書いてみる。

前回でシティボーイズの名は、つかこうへい野球チームの名前だと書いたが(だってそう聞いたんだもん)、長谷川康夫さんの本「つかこうへい正伝」で興味深い記述を見た。
「劇団暫」の公演がない時頻繁に野球をやっていた。その野球チームの名を劇団主宰者の向島三四郎さんが「田園シティボーイズ」と名付けていたのだ。こちらの方がつかさんの野球チームより先だった。
「田園」と「シティ」のアイロニー。
三四郎さんに聞いたことがある。
「自分らの芝居がアングラなんですか?って聞かれましたよ。嫌だなあ。」
すると向島さん「いやいや、“明るい新劇を守る会”とでも言っとけよ。」
今では新劇なんて言葉は死語となってしまったけどね。
新劇とは、戦後に旧劇=能、歌舞伎、新派などに対して欧米の翻訳劇をやり始めた劇団(文学座・俳優座・民芸・青年座などなど)。それに対抗して、いわゆるアンダーグラウンド演劇、唐十郎の状況劇場いわゆる紅テント、佐藤信らの演劇センター68/69いわゆる黑テント、鈴木忠志の早稲田小劇場など新劇とは異なる新しい表現や思想を標榜した演劇をさしている。
その新劇の流れなのかアングラの流れなのかを聞いてみたのだ。自分でも分類不能だとは思っていたのだが。
いいじゃない向島三四郎さん。あえて凋落しつつある新劇を守る、なんて心にもない表現をして返す刀でアングラも皮肉っている。
「田園シティボーイズ」、緊張と緩和。そのネーミングセンスを持つ柔軟さがあったからこそ、つかこうへいを取り込み、シティボーイズの三人や風間杜夫や角替和枝を取り込んでいくことができたのだろう。
それがやがて日本の演劇界を変えていったんよ。陰の功労者だったよなあ…、三四郎さん。
余談だが、スクールJCAの教え子でラバーガールと同期のコンビがいて、そいつらのコンビ名が「ベビーフェース鬼軍曹」だったことを思い出す。これも緊張と緩和。いい名前だったなあ。

さて、ようやく「シティボーイズショーの話になる。
が、よく知らないんですよね、わはは。
これは是非本人たちに話を聞かねば……と思いつつ、過去のことを語ることを大竹さんもきたろうさんも嫌がる人だったよなあ…と思い、さらに5年前に「シティボーイズ/勝手に40周年感謝祭」と銘打った、定期的に開催されている斉木しげるさんのトークライブに自分が出演した時には斉木さんの記憶は適当に自分に都合いいように改竄されていたよなあ…と思い出し、人力舎にも昔の資料は全然残っていないし、いずれ膨大な時間を費やしてインタビューをしなくちゃならないぞと思いながら、ちゃんと知りたい人はwikipedia情報を参考にしてもらえばいいんじゃあないか?と思ってしまって…、まあここは自分の記録の場として知っていることだけを書いていくしかねえ、と。
人力舎に所属する以前の「シティボーイズショー」の情報はほとんど無い。何回かやっていたらしいが観てない。この頃自分が観に行く舞台はほとんど宝塚か歌舞伎とか。で、あとはアルバイト三昧。誘われてなかったしね。ふん。
お笑いをやっているシティボーイズには轟二親以来あまり興味がわかなかったのってのもある。稽古場は見に行ったりしたけどね。

人力舎所属後の「シティボーイズショー」と銘打った第一回目の公演は83年1月。「思想のない演劇よりもそそうのないコント」がタイトル。当時自分たちのウリ文句としていたもの。轟二親でもそんなタイトルでやっていたような記憶がある。会場は「渋谷ジァンジァン」。ここは柄本明さんたちの「東京乾電池」が常打ちにしていたこともあってのことだろう。
「東京乾電池」は77年結成。「自由劇場」を辞めた柄本明、綾田俊樹、ベンガルの三人だけで活動を始めた。
何故人力舎だったのか?
話は遡る。以前軽く触れたマルセ太郎さんがやはり深く関わっている。
浅草で異端だったマルセさん。やはり異端扱いされていた深見千三郎さんとは仲良くしてらしい。ビートたけしさんの師匠として有名ですね。「浅草キッド」なんてえドラマで知名度上がりましたね。
その深見さんと話しているうちに「浅草を盛り上げようぜ!」という話になったんですね。
その頃は今より全然寂れてましてねえ。夜8時すぎると店はほとんど閉まり人通りも少なくなって、地下鉄構内に何人もレゲエおじさんみたいな人たちが寝ていましたよ。自分も怖く思った街でした。
で、二人が企画したのが「芸友祭り」。これが開催される前に世間に認知され始め、NET(現テレビ朝日)の「23時ショー」という番組の中で「芸友祭り」というものをやることになったのね。
その時に出会ったのが篠原公雄さん。のちに玉川社長と二人で人力舎を立ち上げることになる人物。
「浅草にもこんな人がいるんですねぇ…。」と感心した篠原さんは、「コントを見てもらいたい」とNETの稽古場にマルセさんを連れていく。それで会わせたのが「東京乾電池」だったという。
その後「自由劇場」で行われる「東京乾電池」公演にも出演するくらいマルセさんと「乾電池」は仲良くなっていく。不思議。
「東京乾電池」は篠原さん、マルセさんの引きもあって人力舎に所属。
その後フジテレビで1980年10月から始まった「笑ってる場合ですよ」のレギュラーになる。時は「マンザイブーム」。コントのワンコーナーをもらうが、お茶の間向けではない笑いの質で不評だったが、どんな笑いでも取り込んでいく「マンザイブーム」という怪物のおかげもあってどんどん人気が上がっていく。
が、「お茶の間で人気のあるお笑い劇団」というイメージがつきすぎるのを柄本さんが嫌がった。さすが小劇場出身の反骨精神!
当然玉川社長とぶつかってしまう。
「まず生活できるようになってきたんだからもう少し我慢して、もっと売れてから好きなことやろうよ。」
「やだねー!」
なんて会話があったとか無かったとか…。無かったな。
結局、篠原さんが「東京乾電池」を連れて独立することになった。
その篠原さんは、高田純次さんが爆発的に売れ始めた時、柄本明さんと衝突した高田さんを連れてまた独立してしまう。
いやいやまた脇道。
本人たちしか知らない事実があり過ぎて、曖昧な部分の確認が取れないとわからないことが多いのですよ。
やはりインタビューすべきタイミングなのか? みんな確実に「晩年」を生きているわけだし早くしないと。

「乾電池」とシティボーイズが人力舎に所属したタイミング。同時に所属していたのかどうかが確認できてない。
シティボーイズのテレビ初レギュラーは78年4月に始まったフジテレビ「お笑い大集合」。番組スタート当初は土曜の夕方放送。改編を受けてお昼の放送になったと。
んで、改編後の昼からシティボーイズが出演し始めたというのだが、自分は三人だけではなく岡本麗さん、角替和枝さんもレギュラーと聞いて観ていたのだ。
二人に田岡美也子さんが出るものとばかり思っていたのだが、何故か替わりに松金よね子さんが出ていた。角替・岡本・田岡は「劇団暫」の仲間。
池袋「シアターグリーン」での「シティボーイズショー」にも出演していた。
前述長谷川康夫さんのアイデアで、三人に踊らせたりしていたのだ。この件は長谷川さんの「つかこうへい正伝Ⅱ」に書いてある。
以前書いたようにシティボーイズはネタ作りの稽古場に頻繁に人を呼んでいた。
三人だけだと煮詰まっていくので何かアイデアはないか?と聞いてくる。
つか芝居の薫陶を強く受けていた長谷川さんはつかさんの「口立て稽古」の申し子と言ってもいい。言葉を思いつくスピード、演出の瞬発力、人間に対しての面白がりが半端じゃなかった。故に、何かあると長谷川さんに稽古場に来てもらうことになる。
私見ではあるが、初期のシティボーイズは長谷川さんが完成させたんじゃねえか?

さてこの番組、記憶では夕方ですよ。ネット情報おかしくね?
タキシード姿のシティボーイズとシティガールが優雅に踊りポーズを作ると、番組メインキャストの月の家円鏡(当時の表記・後の橘家圓蔵)さんがセンターから階段を降りてくるという演出だった。昼にやるかね、その演出?
余談ですが(ほぼ余談ばかり)、この円鏡さん好きだったなあ。TVやCMをまくっていたが、噺を聞いてぶっ飛んだ。
なんと噺のサゲを冒頭に喋っちゃうんだから。
「そこはあっしの寝床です、ってのがオチなんですけどぉ‥。」
これは新しかったなあ。古典落語なんてぇさんざん擦られまくった話をしたり顔で、「この噺家の実力はいかに?」みたいな顔して観ている半可通ファンを軽くいなしてうっちゃりかけてるよね。
この番組が始まった時点ではまだ人力舎には所属していなかったみたいだ。いや、所属していたのか。どっちだ? 同じフジの「笑ってる場合ですよ」の前だったし、佐藤さんの初プロデュース番組だったと玉川社長に聞いたこともあるし。


あっちゃこっちゃ話が飛び混乱しながらまだつづく。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?