シティボーイズとラジカル・ガジベリビンバ・システム そのきゅう

自分が初めて宮沢さんにあった時の話は「宮沢章夫さんのこと」として以前書いた。
人力舎に入らないか?とシティボーイズに誘われ、社長の初顔合わせも兼ねていた。
雪のちらつく1月の寒い日。千駄ヶ谷駅前のルノアール。
ユイハウス・エージェンシーの東海枝さんから、それまでの「シティボーイズショー」を発展させて、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこうを加えたユニットとして活動させていきたい。その制作をユイハウス・エージェンシーに任せてほしい、という話し合いの席だった。

ユイハウス・エージェンシーは中村ゆうじさんの所属する事務所。タレントプロダクションというより企画制作を主軸としているみたいだった。タレントも中村さんしかいない。NHKがやった「スーパーパフォーマンスなんとか」っていうイベントと番組の企画とかもやっていた。
後にシティボーイズ、竹中直人、中村ゆうじ、いとうせいこうが「ラジカルGS」として出演したその番組で知った「生け花パフォーマンス」なるものをやったグループを紹介してもらい、のちに人力舎に所属させたこともあったなあ。

(なんでこんな大事な場に、社長との面接だとしても、自分が呼ばれたのか?
「ゆくゆくはお前にまかせたい。」みたいな事を大竹さんに言われた覚えがある。だからかあ、と軽く思っていた。でもそんなに甘くはなかったんだよねえ。とんでもなく甘く考えていたねえ。)

とにかくその時の社長はイマイチのってなかったみたいなんだよなあ。どっちつかずの表情。大竹さんたちは既に話を聞いていてあとは社長が許可すればいいだけになっていたみたい。
「シテー(シティ)がいいならいいけどなあ。」と社長はシティボーイズに言っていたが、今まで赤字覚悟で育ててきたものを取られるような感覚があったんではないかと思う。
が、かくして「シティボーイズショー」は次のステップへ。
「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の誕生となる。
だが、その前に。

東海枝さんに30年経ったあとに聞いた話。
ある時ユイ音楽工房の後藤社長から、「ウン百万出すから何か新しいコンテンツを作れ!」と号令をかけられたとのこと。それがバブルの時代の前のことってんだからずいぶん太っ腹な話だぜえ。
後藤社長はもう伝説的な経歴のお方。学生時代にユイ音楽工房の設立に関わり、自分なんかは吉田拓郎の所属するところってことで認識していた。その後拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるのフォーライフレコードの副社長→社長として、日本のフォーク、ロック、ニューミュージック界を牽引してきたお人ですよ。
東海枝さんは元々日本の草分け的メタルバンドのマネージャーをやっておられた方。自分が子供の頃憧れていた音楽の世界の人たち。
時々「ユイハウス」へ顔を出すと、
「アフリカバンバータの今度のやつ聴いた?」とか、「キング・サニー・アデのライブ映像が手に入ったんだけど、観てみる?」なんて言ってくれて、なんだか学生時代に戻ったような気分になったりした。友達んち遊びに行った時の感覚。
好きなものを好きなものとして仕事ができるっていいなあ。
まだ自分は「お笑い」がそんなに好きじゃなかったのだ。
人力舎に戻れば、きつい青森訛りときつい山形なまりが、
「もすもす、こつらとうぎょう(東京)のぉ、ズンリキシャでぇすがあー、今度の千葉パイイチの「あいうえお」(芸人)はトッパライにすてなあ。」なんて電話している。
この落差よ。
アフリカバンバータと訛りながらの「あいうえお」。
憧れちゃうよねえ。

「なにか新しいコンテンツを作れ。」
「新しい」。いいなあ。
「コンテンツ」っていいますけど、「ラジカル」の舞台は一度もソフトとしてリリースされたことがないんですよねえ。当時は既にビデオソフトとして売っているものは多かったのにねえ。
不思議なのよ。
まあ、権利カンケーみたいなものを考えると頭痛くなりそうな気もする。
音楽は重要だし選曲した井出靖さんや藤原ヒロシさんたちはどうする?
出演者の事務所はバラバラだし、全共闘世代のシティボーイズは小劇場脳のままの美学はあるし、そのバックには玉川社長の金銭感覚が存在するし、完璧主義者の宮沢章夫さんが監修するだろうし、製品化する場合の予算もあるだろうし、かける音楽がイメージさせる世界観も必要だから楽曲の著作権の費用も考えなければならないし。
それはそれは大変そう。想像ですけどお察しします。
それはさておき。「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」という名前が決まる前にまだ「シティボーイズショー」をやっている。
まずは「コズミックダンスへの招待」の大阪公演があった。

自分が人力舎に入った後は、名刺ができるまでは暫くは外廻りなどせず事務所番とやらで毎日事務所で掃除と電話番と雑用と芸人が出演した番組を録ったビデオの整理ばかり。
ビデオの整理は時間がかかる。それがもうごちゃごちゃで。タレントで一本にまとめようとダビングにダビングにダビングを重ねてたらまるで裏ビデオ並みの画質になってしまう。ぶるうたすの筋肉漫談もなぜか淫靡な感じに…。今の人はわっかんねえだろうなあこの感じ。
それで徹夜になったりして、もう、オレ、何やってんだろう?
時々ブッチャーブラザーズのリッキーのお兄さんが来て、パソコンに名刺整理とかのプログラムを作ってくれたりしていた。何しろwindows出現以前。Dos-Vよ。ぺらぺらのフロッピーディスク。プログラム言語がどうちゃらこうちゃらの時代。大変だったろうなあ。
とにかく事務所にいる時間がとてつもなく長くて辟易していた。

ある日、「夜にシテーたち(シティボーイズ)がなんか打ち合わせすっからお前事務所いて。」と言われた。
ああ、また残業だなあ。
駅前の印刷屋、印南印刷さんから帰ると既にシテーさんたちはいた。難しい顔。
「じゃ、あとはまかせたから。何かあったら雀荘まで電話ちょうだい。」といって社長は出ていく。
中村ゆうじさんが来る。宮沢章夫さんが来る。笹野高史さんが来る。女優陣のどなたかがいたが失念。記憶は曖昧。
お茶を出そうとするが、いらないと言われた。
大竹さんの機嫌がすこぶる悪い。
笹野高史さんが大阪公演に出られないというのだ。
揉めた。てゆうか大竹さんが一方的に怒っている。笹野さんも困った顔で喋っている。
笹野さんもメディア露出が増え始めてきた頃。いい仕事がたくさん決まってきていた。
大阪が急遽決まったのかスケジュール変更なのか単なる連絡ミスなのかは知らなかったのだがこの日の話し合いはイヤーな感じで終わった。
「もういい。帰れ。」みたいなことを大竹さんが言った。「じゃあいいのね。」みたいなことを言い、納得いかない感じで出ていく笹野さん。曖昧な記憶では。
でもまあ嫌な残業だったことははっきり覚えている。
結局「コズミックダンスへの招待」大阪公演には、いとうせいこうさんが代役として出演することになった。演技派の笹野さんの代役とは荷が重そうだったが逆に宮沢さんの演出意図に近いものができたんじゃないか、よりリアルで面白くなっていたんじゃないかなあ。
そしてこの大阪公演で、竹中直人以外の「ドラマンス」メンバーが、後の「ラジカル」メンバーが、図らずも揃うことになって、なんだか新しいものが生まれてきたような空気が濃くなったんじゃあないか、と。そんな気がする、知らんけど。

つづく

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