劇団た組。【貴方なら生き残れるわ】の記録映像を観た話
2020年4月10日から17日までの間、期間限定で劇団た組。のYoutubeチャンネルで配信された記録映画を拝見しての感想です。
あらすじ
松坂は母校の体育館にやってきます。
そのコートで、失った熱量を懐かしんでいると先生に会ってしまいます。
先生は言います。元気か。
松坂は言います。まあまあです。
そして松坂はシュートを打ってみなと促されます。
促された松坂はシュートを打ちます。打って、それから、謝ります。
バスケット辞めてごめんなさい。
松坂はバスケットを何も言わずに辞めたのです。
誰も知らないまま、辞めたのです。
ただ、バスケットを辞めたのです。
たかだか、バスケットを辞めたのです。
―引用元:劇団た組。HP 貴方なら生き残れるわ
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『自分で選んだ道を、自分で正解にするしかない』
誰に言われたのか、それとも自分が自分に放った言葉だったのか。もう起源は覚えていないんだけれども、これは確かに私の座右の銘の一つです。だからラストシーンにこの言葉が出てきたことは小さな驚きだったし、この作品が最初から自分の心の深いところに到達してくる感覚があったことにひどく納得しました。
「そうだよね、そうなんだよね」
そう心の中で何度も呟いたし、泣きながら画面の前で頷いてしまった。こうしてあとから文字にしてみると、自分に酔っているようで笑ってしまうんだけれども。自分の選択を自分で正解にしていくっていうのは、過去を変える力だなと思っています。
演者の中のお一方のTwitterアカウントを、2018年の夏の終わりからフォローしていたため、彼のツイートのおかげで公演期間前にタイトルだけは目にしていました。だけど私には別で熱意を注いでいたものがあったから、これが上演されている場所も、主催の劇団の名前ですら記憶にとどめることもなく、2020年の4月の10日まで生きてきたんです。記録映像を見た今となっては、現場で見られなかった悔しさがないと言えば嘘になる。だけど当時他のことで一生懸命だった自分の生き方を、現在の自分が正解だと思ってやらなきゃいけないんですよね。この作品を観たからには。
観始めてしばらくの間は、時々やってくる野球部の亡霊みたいな存在に嫌悪感を抱きながら、バスケ部のことを『確かに緩いなぁ』と思って観ていました。
自分も高校時代バスケ部にいた経験があるので、 私自身の部活の思い出を反芻しながら観ていたのですが、常に顧問の先生が怒号を飛ばしている環境にいたので、沖先生のおっとりした感じがひどく羨ましかったです。(顧問の先生がこんなに怒らない運動部が存在しているのか、という驚きもありましたが)一人ずば抜けて上手な子がいるという設定が自分が在籍していた部活の状況と似ていて、よりこの舞台に入り込めた要因になっていたと思います。
その、ずば抜けて上手い、吉住先輩。
練習の時の雑談で一緒になって笑っていた様子からは一変して、試合中のタイムアウト時にチームメイトに対して酷く苛立ちながら
「こいつらにボール取らせろよ!!」
と怒鳴る姿が印象深いです。私のお粗末なプレーが許せず、ボールを怒りに任せて床に叩きつけて無言で去っていったあの時の先輩の姿と重なって、まるで画面の外で見ている私が吉住先輩をイライラさせてしまったような気持ちになり、胸が締め付けられました。
吉住君はなんで、東興を選んだんだろうなと考えてしまいます。問題を起こしたあと、ベスト8まで進めた沖先生の存在を知ってそこへの進学を決めたのか、それとももうバスケなんてしないと決めてバスケ部の無い高校に行き、そこにたまたま沖先生がいて、またバスケを始める気持ちになったのか。
「お前が勝てるって言ったから!!!」
って、沖先生に怒鳴り散らしてるところ。勢いに圧倒されかけたけれども、思い返せば信頼できる人に力いっぱい甘えてる姿だったのかもですね。沖先生のこと大好きなんだろうなぁ。
高校生くらいの歳って、大人に素直には従わない年ごろだなと思います。思春期を抜け始めて、一人の人間として、もう一段階上の自我が芽生えるような年齢。
(人間学の知識は全くないので、適当な憶測ですが…)
中学生ほどは未熟じゃないから、”わきまえた”対応ができる子もいるけれども、
【大人=敬うもの・従うもの】という等式は必ずしも成り立たないということを、もう感じ取っている年齢だと思う。
(成人して何年も経ってしまった今、我が身を振り返って、『大人だから偉い』『大人だから子どもを正しく指導できる』ということは絶対にまちがっていると学んだ)
ここから沖先生の感想にもシフトしていくのですけれども、
・部活に来られないから、代わりの先生を手配する。
・来られる日はちゃんと様子を見に来るし、試合はちゃんと同行する。
上司(管理職の教頭)の指示通りにするしかなかったサラリーマンとして、責任を果たすための、これ以上の対応はあるだろうかと思いました。
もしかしたら教頭先生にもっと頼み込んで、部活に間に合う時間に終わる授業だけ担当にしてもらえたかもしれない。立場と重圧があったとはいえ、沖先生も”別の選択”ができたかもしれない。でもできなかった、選べなかった。ボールを床に叩きつけるしかできなかった。
こんなことを繰り返しつつ、沖先生自身も自分の人生の中で、己の選択を正解だと思えるようにしてきたのかもしれないですね。正解だと思えなくても、正解だと思えるように努力してきたのかもなぁと思いを馳せました。
選択ができなくとも、子どもにけっして八つ当たりすることもなく、「先生だって苦しいんだよ」なんて泣きごとを教え子たちに言うわけでもなく、ひたすら自分のできる最良を考えて生徒を導こうとしていた沖先生がとても好きでした。
マッツンは野球部を辞めたことも、バスケを辞めたことも、先生たちから肯定も否定されなかった。これも、『選択の正解不正解は他人じゃなくて自分が決めるもの』という意味なのかなぁ。野球部のあの子は、マッツンに後悔して欲しかったのでしょうか。マッツンが辞めたこと後悔していたら、選択を『間違い』にしていたら、続けるという正解を選んだ彼は優位に立つことができるから。きちんとお話を理解しきれていないので想像が間違っているかもですが、野球部の子は辞めたくても辞められなかったのかなと思います。諸々に縛られて、そこに居続けるしかなかったのかもしれない。
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舞台の作りの感想。
最初に結末を見せて、間でここまでの経緯を出して、最後に大きなメッセージを持ってくるという舞台全体の構成がスッキリと分かり易く、とても観やすかったです。生演奏も素晴らしくて、キャラクターの心情を歌いながら歌詞を表示させる手法もよかった。気持ちを想像するのも楽しいけれど、「こう考えているのか」ということがはっきりわかる方がより感情移入できたりするので。
あとは何といっても、本物のボールを使って、本物の試合を劇中で行ったこと。ボールやその他のモノが"在る"ような振りで表現されることは多々ありますし、この演出をフルに活用した素晴らしい作品が世には何本もあるかと思いますので、
本物を使う>本物を使わない
ではないということを前提として、感想を進めていきます。
舞台って現実ではないから、もしも私が演出家だとしたら、現実に近づけたり本物っぽく見せることはしないと思うんですね。あえて作り物であることを意識させるような仕掛けとかをいれて遊んでしまうだろうし、本物を持ち出せないことを利用して舞台ならではの演出を持ち込んで楽しむのだと思います。先人たちの例に倣ってみたり、あるいは新しい手法を編み出そうと試行錯誤したりするのかな。(演出を勉強したいなぁという気持ちだけはあります(笑)。詳しい人がこれを読んでくださっているなら、ここまでの数行はどうぞ笑い飛ばしてやってください。)
でもこの作品はそうじゃなかった、バスケの試合が繰り広げられていた。映像を切り取って「高校生のバスケットの試合です」って言って出しても、多分ほとんどの人が信じるんじゃないでしょうか。リアルとフィクションの境目がほぼない演出。なぜだろう、なぜこういう演出にしたんだろう。わからないけど、だからこそ自分の心に深く刺さったような気がします。
生々しい、どこにも漫画に出てくるようなヒーローなんかいない、普通の男子高校生の、ほんの数カ月の生活の様子。作中何度も登場する
「コンビニ行こうぜ!」
の呼びかけ。観ていたときはこれは何か隠された意味があるシーンなのかと粋がって考察しようとしたけれど、今はそのままの光景として私は受け止めています。多分意味はない、なんのことはない、高校生の日常なんだろうね。めっちゃエロ話ばっかりするやん!って笑ってしまったけど、健全男子ならあれが普通なんだろうなぁ。ほほえましい。
この舞台の内容について、誰かに思い出話のように話されてもなんら作り話だとは思わないような作りだから、台詞の一つ一つがこんなにも自分の心に響くし、一瞬一瞬の表情にこんなにも胸を打たれるんだと思う。 この作品は本物でいいんだなぁ。
あと、一般の人の人生のほんの一部分って、記憶にはなっても記録には残らないから、円盤になっていなくて良いのかもしれない。いやめちゃめちゃ手元にほしい作品です。誤解のないように言うと。でも映像"作品"として世に残り続けるのは、これには似合わない感じがする。
ヒーローでも何でもない、どこにでもいる、普通の男の子たちの、なんてことはない一ページ。でも当事者にとっては激流だったり、ドラマティックだったり、人生の大きな大きなイベントだったりするわけで。ただ一度そこから離れてしまえばもう、意識しない限りは知ることもできず触れることもできない。結婚式に呼ばれなかったマッツンもそうでした。
「呼ばれてない」
「当たり前だろ」
このやり取りが刺さりました。そうだ当たり前のことなんだ。吉住先輩の中には、もうマッツンは重要なイベントに呼ぶような対象としては存在していない。ただ部活を黙ってやめた、それだけのことだけど、それだけのことで、崩れるような関係性だった。でもバスケ部で一緒に過ごした時間というのは、今まさに私が見た通り、しっかりと存在していたんですね。全部に納得がいく残酷さだなと思います。
ここでもう少し主人公のことに触れるんですけど、マッツンの
「あそこまで熱くなれない自分はここにいてはいけない気がした」
という台詞が、私も振りかざしたことがある言い訳なので、他人事だとは思えませんでした。
『いてはいけない』なんてこと、きっと無いんですよ。どこにだって人はいていいものだと思う。だからマッツンのこの発言は、自分以外の存在から判断を下されたような、まるで自分が受け手であるかのような、そんなずるい言い回しだと思います。決めているのは他の誰でもない、自分自身なのに。
だけどこう言うしかない。そうして己に対して、不完全な肯定を与え続けながら、人は生きていくものだと私は思うので。
『自分のこういうところが嫌いで情けなくて許せない、見たくない。人のせいにしたり、理由をつけて諦めてしまいたい』
そんな対峙したくない自分の内側を、知らない間にスケッチされて、貼り出されているような気持ちにさせられました。不愉快じゃない心の抉られ方というか、そういうものを覚えました。
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當座君と吉住君の関係とか、野球とマッツンの確執とかもっと考えたかったけども、まとまらないのでこのあたりで。
いっぱい泣いて、途中何度も止めないと観られない舞台でした(良い意味で)。観る機会を与えていただいたことに感謝です。私にとってずっと忘れない一作だと思います。
読んでくださった人がいたら、ありがとう。ではまた!
配信を観た日:2020年4月12日