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自己実現とか自己肯定感とか

恥ずかしい話だが、私は自己実現とか自己肯定感という呪いにかかっていたことにごく最近気づいた。呪いは自分でかけたもので、それに囚われて自己実現という幻想を追うがあまり、自己を見失う、という不毛な時間を過ごしていた。気づいた今は遅れてやってきた中2病だと思って愛おしい時間だったと思うしか無い。

私はここに既に居るのに。肯定するも何も、今こうして在る存在を否定する余地は無いし、もうそこにあるんだから、あるものでどうにかするしかないだろう、とやっと気づいた。

どうやら自分の思考が行き過ぎると身体を忘れて妄想が目的化してしまい、そこにある身体を思考に適合させようとするようだ。

意志が私を大人にしてくれるわけではなく、私の体と存在が私を私たらしめてくれているというのに。

その妄想の意志が自分をがんじがらめに縛って不自由にしていることがあるから面白い。大なり小なり、現代社会の闇はこう言うところに起因しているのではなかろうか。

何が言いたいかと言うと、朝起きてやらなくてはならないことを頭の中で羅列してその焦燥感と責任感で体を動かすのではない、ということ。
朝起きて、「寒っ」と感じて考える間もなくストーブを焚きに一階へ降り、溜まった灰を見て「やばっ」と感じてストーブから掻き出し、ふと煙突の煤掃除をしていないことに気づき、煙突を外し、広げた新聞に落ちてくる煤の量を見ながら今日ちゃんと煙突掃除をした自分を誇らしく感じ、火を焚く頃には体が既に目覚めて体温が上がり、寒さを感じなくなっている。

不思議なもので、身体が温まればその日にやるべきことの取捨選択がしやすくなって、できない自分に落ち込んだりもしない。すでに自分の体があることが大前提だから、この後どうするか、にしか頭が働かないから。

世界一の天才と言われたマリリン・ボス・サバントは、『知性は自己実現の手段になるだろうし、手段であるべきかもしれない』と述べている。でも、『それはあくまでその人のごく一部』とも言っている。

知性って、身体の存在を忘れがちなのかも。幼少期にまだ母子分離できていない子どものように。実は依存している。だからこそ安心して飛躍したりできる半面、分離の時期が来た時に自分の中でものすごい葛藤が生まれるのかも。そして後々振り返ってみると、身体という器の中でのびのびやらせてもらってたんだな、と気づく。

さて、今日は重い体を引きずらずに、軽やかな目覚めた体でnoteを書き始めたけど、やらなくてはならないタスクの数は全然変わってなくて、メンタルが焦ってるか、堂々としてるかのどちらか、という違いだけ。

堂々としたまま昼を過ぎた。

タスクは依然片付かない。

……

焦って申し訳なさそうに自分の身を削るか、諦めてさっぱりとふんぞり返っているか、私の自己実現の選択肢はその2択があって、明らかに後者の方が自己肯定感が高い。

自己実現も自己肯定感も目指すものではなくて自分の足元にあったよ、ということ。

(とりあえず今日もやらなくてはならないタスクは何一つ終了していない)


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