【短編】オンザ・スモーキング・ルーム(後編)
前編の続き
「お前つまんないの?つまんないなら帰ったら?」
昼下がりのスモーキングルームでアメスピを吸いながら、昨日の飲み会を思い出す。今日は喉が渇いていたのでセブンアップも手元にある。
上司に言われた言葉だった。嫌々参加した部署の飲み会だったので、つまらないのは本当だった。
「前川、今日残業になりそう?」急に聞かれたので、「定時であがれそうです。」と正直に答えるとそれは飲み会参加の承諾だったのだ。
上司はなぜ、部下を誘いたいか。それは良き反響版が欲しいからだ。彼らはつまらない日常をなんとか紛らわすために酒を飲んで、くどくどと経験や持論を述べる。そんな時、ちょうどいい相手は悟のような黙ってそれを聞きそうな内向的な部下だった。
悟は飲み会が始まって二時間が経ったころ、上司の酔いが回り始め、会が間延びしてきたので暇つぶしに携帯ゲームをしていた。
すると、それに気がついた一人の酔っ払った上司が悟に「お前つまんないの?つまんないなら帰ったら?」と怒鳴り散らしたのだ。悟はそのときはただ「すみません。」と言った。
それは、本能的で馬鹿な奴が怒りはじめたときは只すみませんと言っていれば良いという悟の人生経験から身に付けた知恵だ。
今日の朝、悟を怒鳴った上司に今日会うと至極普通にしていた。昨日は大そう酔っ払っていたようで悟に対する怒りなど覚えていないようだ。やはり、悟が思った通りの本能的な馬鹿だった。酒の飲みすぎで脳細胞が死んでいるのだろう。
悟は煙草を吸いながら、糞みたいな人間の虚栄と弱さを見抜き、それを操る才能が自分にはあるのではないかということを思っていた。
あんな奴らが死んでもこの社会は一マイクロも悲しまない。奴らが自分の弱さを隠しながら虚栄を張り、生きている姿はなんと滑稽なことであろう。
そもそも今現在奴らが生きている価値はあるのだろうか。
その疑問に対する問をださないままアメスピを吸い終わり、セブンアップを飲み干すと、悟はまたくだらない世界へと足を踏み入れるのだった。
いつものことながら、次のスモーキングルームが楽しみでしょうがなかった。
〇
ある日、悟はいつものようにこの世界に失望しながら出勤すると、ある職務命令が下されたことを知った。
「煙草の煙の少ない県」を目指すという県の方針に従い、来年度から職場内全面禁煙が行われるというのだ。
つまり、スモーキングルームがなくなる。
全面禁煙にはもう一つの理由があって、それはスモーキングルームへ行く喫煙者と煙草をまったく吸わない人々との勤務時間の不公平さが前々から職場内で問題視されていことである。
そういうことは悟の耳にはなんとなく入ってきていたので、ある程度は予想のつくことであった。
しかし、実際現実になってみると驚いている自分がいる。
その後、いつも通り、スモーキングルームに行った。この時間ももう来年度からなくなるのか・・・・・。
その時、悟のなかで何かがプツンときれた。
やーめた。もうやーめた。こんな糞みたいな人間関係に囲まれた糞みたいな職場なんてやーめた。
よく考えれば、自分はもうすぐ三十だ。三十を迎えた時、自分の生きた三十年を振り返り自分は何を思うのだろう。ただなんとなく過ごし、他人への嫌悪と悔恨を増大させた三十年だったときっと後悔するのだろう。
じゃあ、次の三十年はどうなるのか。今のままでいけば、同じことを思うだろう。
死ぬときだって今のままでいけばそうだ。
何も変わらない。変えることが出来ない。このままでは。
自分が変わらないうちに只、時は流れるだけでなく、自分の縋っていたものや大切にしていたものがどんどん変わり、スモーキングルームのように失われる。
だから、自分はこれを機に変わらなければならないのではないか。
まずはこのスモーキングルームのなくなる糞みたいな職場から抜け出して、自分を変えてみようか。
そして、いつ死んでも、自己肯定できる人生を自ら作り出してみようか。
よく考えたら自分が求めていた安定なんざこの世にない。
それはスモーキングルームの存在の揺らぎを見ても明らかなのだ。
だったら、もっと危ない人生を歩んでもいいじゃないか。安定なんてないけど、わくわくやどきどきのある人生を歩んでみたい。
だから、自分のいる場所はここではない。
残っていた煙草を最後まで丁寧に吸うと悟はまるで別人になったかのようにスモーキングルームから世界に足を踏み入れた。
〇
退職の旨を伝えると上司からは「逃げるのか。」と言われた。
なぜ、辞めるということを逃げと捉えるのだろう。実に間抜けだ。こんな上司のいる職場から喜んで逃げるほうが正解だ。
悟は「新しくやりたいことがある。」と上司に言った。上司に「やりたいこととはなんだ?」と聞かれても、あいまいな返事でごまかした。
やりたいことなんてない。しかし、冒険してみたい。それが今の悟だった。やりたいことなんて後付けでいいのだ。
親からは猛反発と大叱責を食らった。彼らは悟の「県庁職員」、「公務員」という肩書が世間で誇れなくなることを恐れているのだろう。それだったら自分に被害なんてない。世間体なんていう実態の見えないものを気にするあまり、自分に嘘を言い聞かせて、常に他人を気にして虚栄をし続ける茶番劇のようなものに付き合っている暇は悟にはないのだ。
煙草もやめる。そう決意した。もういらないのだ。悟にとってニコチンよりも快楽を得られるものがこの世にはあり、それは自分から作りだせるのだと考えたからだ。
悟は自分のみなぎる情熱と生命力を現在進行形で感じている。こんな経験は生まれてこの方々一度もなかった。
思い起こせば、自分はずっと冷笑主義者だった。自分を取り囲む環境や他人の弱さやそれを隠すための虚栄を眺め、それを心の中で笑うのがいつしか癖となっていた。
しかし、「自分はどうか?」と考えた時、自分が一番弱いのではないか。薄々気が付いていた。冷笑こそ自分の弱さを隠すため虚栄に他ならないのだ。
悟には「自分」と「当事者」という視点が欠けていた。
「自分はどうしたいのか?」「自分を人生における当事者として、自分で判断し、それに対して自分で責任をとる勇気や覚悟はあるのか?」
悟は三十を前に、スモーキングルームの消滅を機にやっと「自分」と「当事者」という感覚を身に付けたのだった。
これからは自分を人生の当事者とし生きてみよう。
悟の明日は煙で曇っているのではなく、晴れやかで明るく、煙は一つもない。
〇
悟はアメリカンスピリッツを箱ごと川へ投げ捨てた。その行先はもう見なかった。見る必要がなかった。
終わり