「運」を忘れた功績原理主義が引き起こすもの〜『実力も運のうち』読書日記〜
今回は、マイケルサンデル教授の新刊「実力も運のうち」のエッセンスをまとめてみた。本書を手に取る前にざっと全体像を掴みたい方のために書いた。
本の内容
本書は、ハーバード大学の政治哲学の教授であるマイケルサンデル教授がアメリカ社会を中心に現代の分極化について道徳的、倫理的な観点から書いたものである。その鍵として語るのが功績主義である。
そもそも、功績主義とは社会、学業において、その人が持つ能力や功績によって人の価値を決める道徳観念であり、この観念は現代において有効性と公正性という理由から重要である。まず有効性について、多くの人は何か仕事を任せる時に自分が知っている人の中で、最も能力を持った人にその仕事を任せるだろう。例えば、同じ仕事を10日間かけて行う人、5日間かけて行う人がいた場合、5日間かけて行う人に任せた方がその仕事は早く済む。つまり、能力や功績に基づいて人を選別することによって、社会、個人に対して利益がもたらされるのである。次に、公正性の観点とは、その人が持つ能力や功績によって選別することは階級、人種、性別によって選別することよりも、出自によらないより公正な選別であると言える。こう言った有効性と公正性と言った観点から功績主義は現代の自由主義社会の中心を占めるようになっている。
しかし、功績主義は社会や個人に有効性や、公正性、そして出自による選別との距離をもたらした一方で今日の分極化を生むような観念を生み出した。それは、『成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだ。』という観念である。この観念の欠点は、功績主義であろうとも「運」によって自分の未来や功績が決定すると言うことである。すべての功績の帰結が自身だけに起因すると考えるこの観念は、社会における学位、出世、成功の価値を過度に増進すると同時に、そうでない人々への『見下し』や『敗者』というレッテルをもたらした。そして、社会は『勝者』と『敗者』に分極化していくこととなった。
多くのエリートが社会的な分極化を社会的流動性によって、解決しようとする一方で、サンデル教授は、それとともにより本質的な解決策が必要であるという。それは、社会的、そして個人としての多くの労働者への尊厳の承認である。社会的流動性が高まったとしても、例え肥大した功績主義によって『勝者』と『敗者』に、『見下し』や『敗者』というレッテルが生まれれれば、社会は分極化するのである。そこで、『見下し』や『敗者』というレッテルを貼られていた人々の尊厳を制度的に社会的に承認することが「社会的流動性」の増加とともに求められ、寛容な社会へと我々を導くのである。
本書のキーエッセンス1〜「運」の存在を忘れた功績主義による学歴と出世、成功の道徳的地位の肥大化〜
本書のキーポイントとなるのは、「運」の存在を忘れた功績主義による、学歴、出世、成功の道徳的地位の肥大化である。
功績主義の道徳的観念においては、自らの能力、そして功績は自らの道徳的価値と等しくなる。それによって、学歴、出世、成功などは功績主義の社会において、自らの道徳的な価値、存在意義を証明するものとして、価値が増す。ただ、これには一つの罠がある、今日のそれらの価値に「運」の存在が考慮されていないことである。
社会の全ての人々が生まれ落ちた家庭環境、出会った人々、全て同じならば、学歴、出世、成功は効率的で、絶対的な道徳的価値を持つだろう。しかし、現実社会、例えば本書で取り上げていたをアメリカ社会を見ると多くの場合、家庭環境によって、将来受けられる教育年数、医療環境などが決定する(1)。また、その人が社会、マーケットによってどう評価されるかは、その人が生まれてくる時代、社会の文脈にもよるだろう。つまり、功績主義社会においてですら、「運」の存在が学歴、出世、成功を決定づけるのである。
今日は、こう言った現実があるのにもかかわらず、多くの人々、とりわけエリートが『成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだ。』を信じることによって、その象徴的存在である学歴、出世、成功に対して、「運」の存在を排除して、それは「全て自分自身の手柄」という道徳的観念という現実との乖離と肥大化、同時にそれを手に入れられなかった人々への『自己責任』や『敗者』という見下しを引き起こしているのである。
そして、今日多くの先進国の学生、ホワイトカラーは「敗者」にならないため、自分の精神や身体を犠牲にしてまで、その地位の維持に奮闘し、それ以外の人々は、社会への絶望と社会からの見下しに精神や身体を犠牲にして耐えなくてはならないという事態が起きてしまったのである。
本書のキーエッセンス2〜労働の尊厳の承認〜
本書では上で言った通り、「運」の存在を忘れた功績主義は学歴、出世、成功に対して「全て自分自身の手柄」という道徳的観念という現実との乖離と肥大化、そして社会に「勝者」と「敗者」という分極化をもたらした。では、これについてどのような解決策が考えられるだろうか。
まず挙げられるのが社会保障制度、分配による社会的流動性の確保である。社会的流動性とは、人々がいかに出自によらず、社会的な制度や競争環境にアクセスできるかを表すものであり、国際機関によって指標化もされている(2)。分配や社会保障政策によってこれを確保することによって、功績主義の「運」の部分をできるかぎり排除するのである。
これに対して、サンデル教授は本書で、社会的流動性の確保を必要とする一方で、それに加えてより本質的な方法を主張する。労働の尊厳の承認である。つまり、功績主義の「運」の部分をできるかぎり排除したとしても、『成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだ。』という観念が残存する中では、再び、「勝者」と「敗者」という分極化を産んでしまうことが考えられる。これを防ぐために、社会的に賃金保証などの労働者の確保や賃金の向上によって制度的に、そして人々がその価値、尊厳を承認することによって「勝者」と「敗者」という対比を社会的になくすのである。
まとめと読後感
以上、『実力も運のうち』の内容のエッセンスをまとめてみた。もう一度述べると、本書では、功績主義は近代において社会に有効性や公正性をもたらした一方、「運」を排除した功績主義により、『成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだ。』という観念の社会への満映と、「勝者」と「敗者」という分極化を生んだ。それへの対応策としてサンデル教授は、社会として、個人として労働の尊厳の承認を行うことにあるとが重要であるとしている。
最後にサンデル教授はこのような言葉で本書を締めくくっている。
人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあると言うのだろうか?その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じていれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。『神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた。』。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を越えて、怨嗟の少ないより寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。(邦訳p323)
この本を読んだ後、私自身、自分の周りの状況や、日本社会に視点を移すしてみると日本はアメリカや他の先進諸国と比較して、比較的社会流動性は高いので、この問題がそのまま起こっているとは言い難い。しかし、今まで持っていた『功績主義』という信念をこの本を通して批判的に再考することができたのではないかと感じた。また、この書を多くの人が手にとり、運を排除した「功績主義」がもたらす分極化へのブレーキとなると良いと考える。
【参考文献】
本エッセイの内容、主張は全て、邦訳版『実力も運のうち』を参考。よりエッセンスを短くまとめたものとして、サンデル教授のted talk もおすすめされる。
【脚注】
(1)"Global Social Mobility Index 2020: why economies benefit from fixing inequality"(https://www.weforum.org/reports/global-social-mobility-index-2020-why-economies-benefit-from-fixing-inequality)
(2)前掲(1)
【ダクト飯他記事】
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