『魂の自由』
自由とは何だろうか。自由意志の議論において、現代、取沙汰にされるのは、表層の意識がほとんどである。リベットの実験とそれに基づく議論は、潜在的な意識における自由意志の話はほとんどしない。否、取り扱えないのである。そもそもが、自然科学とそれに立脚する哲学の議論では、精神分析は軽んじられる。精神分析は、自然科学の条件である反証可能性に抵触するという論者すらいる。潜在意識など、どうなっているか分からない、というのが自然科学的な態度なのである。確かに潜在意識には光はあまり届かない。そもそも、潜在性という領域に、光という語義は適用出来ないことは明らかだろう。ここには矛盾がある。しかし、今一度問おう。潜在性という領域は実在しないのだろうか。これがオカルトの領域ではあるが、世の中に存在するのは明らかなものだけなのか。心理的にそうであって欲しい、というだけではないのか。ロゴス中心主義や唯物論者、理性主義者は自らの中に胎動する情動に気付いていないのではないか。
それは良いとして、潜在性という存在領域の証拠はどこにあるのだろうか。とりあえず、私たちは物理的にそれを認めねばならないだろう。それでなければ、しばしば批判される意味合いのオカルトになってしまう。結論から言えば、量子力学は潜在性の物理的な証拠である。波の状態というのは、マクロなレベルでは現れてはいない。しかし、これは世界を構成する、自然現象の一つの様相である。これが実在しないという者は、もはやいまい。しかし、とりもなおさず、これはオカルト(隠れ)であることも事実である。
ここまでは良いのだが、昨今、スピリチュアルの界隈と、自然科学を誠実に学ぶ者の間で、よく議論されるのは、量子力学とスピリチュアルな世界は何も関係がない、ということである。しかし、私はこれに疑念を覚える。神智学を研究していけば分かるのは、量子力学的な世界と神智学的な世界は、ほとんどそのまま重なるのである。これをどのような事態として考えれば良いのか。とりあえず、物理の世界とオカルトの世界は照応関係にあるということが出来る。そして、この事柄は共時的な二重の在り方をしているということである。
私が散々悩んできた問題の一つに、心と物、どちらが先行して存在しているのか、という問題がある。これに、スーフィズムの研究家、アンリ・コルバンは、一つの答えをくれた。それが今言った共時的な在り方である。心と物、どちらが先行しているのか、というのは物理的な因果関係の考え方であることに注意したい。通常、自然現象においては、Aという事象からBという事象が発生する、というように、一方通行に流れる時間の中で、因果関係というものが考えられる。しかし、これはあくまで物理現象の世界における話である。形相の話を想起してほしい。形相というのは、形而下におけるものに沿って、存在する形而上的な相である。ここにおいて、成立しているのは通時的な在り方ではなく、共時的な在り方なのである。
ここにもロゴス中心的な考え方があるのは面白い。つまり異なるものは、どこか別の場所にあるという観念及び前提が、すでにあるから、心と物を分けて考えることが成立し、その結果、心と物というのは、どちらが先行して存在するのか、という話になってしまうのである。この問題、案外根深くて、実は哲学の始まりというのは、そもそもロゴスの始まりだったのである。ソクラテスがロゴスを重視する考え方を始め、その伝統に則って、現代の哲学、及び全体的な学問が在る。ここから、レンマ的な考え方は捨象の道を突き進む。誤解してはならないのは、レンマ的な考え方が完全に消え去ったわけではない。レンマ的な考え方は、直感的な働きなので、そもそも排斥しようとし切れないのである。オートマチックに働くのがレンマ的な考え方なのである。しかし、ロゴス中心主義が推し進められ、レンマ的な考え方は抑圧されていった。詩的な表現を哲学に使えば、ポエマーだと揶揄するような者もいる。果ては日常生活まで、レンマ的な考え方を捨て、ロゴスを中心的に用いる者もいる。そのような者といるととても窮屈になるのは、直感的に感じている人もいるのではないか。断っておきたいのは、私はロゴスを排斥したいのではなく、ロゴス中心主義を批判しているのである。
閑話休題。さて、通時的な在り方を前提から解きほぐしたところで、共時的な在り方の話に戻ろうと思う。心と物がどこまでも照応関係に在ることを、神秘主義思想は明らかにする。これが万物照応というものである。それを明らかにするのが象徴である。とは言ったものの、これは各々が世界の神秘(象徴)に触れるのが手っ取り早い。そして、私も今まで世界の象徴を、散々説いてきたので、今更、長々と紙面を割くのも蛇足になるだろう。神秘(象徴)というものはどこにでもある。これも私は主張したいのだが、現代の科学を信じる者も、スピ系も、何か勘違いをしているように思うのだが、神秘というものを、非日常化し過ぎているようだ。確かに神秘の意義というのは、非日常にもあるのだが、万物照応という考えや、形相というものを徹底して考えていくと、日常と非日常というものは、一つのものなのである。つまり、神秘というものをもっと素朴に捉えて良いと思うのだ。厄介なのは、神秘というものや、非日常というものを、畏怖する心理である。気持ちは分かる。しかし、それは却って危険でもある。ものの見方が狭隘になってしまう。大仰に言えば、世界の見方が狭隘になってしまうのである。
大分、道を外れてしまったが、心と物が共時的に存在するなら、どうなるのかということを論じたい。物理的なレベルではマクロな系も象徴的に出来ている。海、大地、空、みな、象徴的な存在だろう。量子力学はミクロな系である。ミクロな系というのも象徴的に出来ているというのが、私の見解だ。例えば、対生成と対消滅という事象は、西田のいうものとものが働き合うという事態と照応している。これはヘーゲルの弁証法に影響を受けているのだから、当然、弁証法的でもある。これを物語ると、対立するものが働き合い、せめぎ合いの果てに、お互いを保持しながら、統一的な存在者になる、ということになる。繰り返しになるが、この運動は宇宙が始まる前から在る。
引力と愛の動き方が同様であるというのも、一つの象徴であるし、原子や分子というのも、見る人が見れば分かるように、その在り方は、まるで恒星とその周りを回る惑星のようである。量子力学で言われる、観測をすると素粒子の状態が固定されるのは、サルトルの眼差しの議論と同様である。そして、素粒子の一つ一つが力を持つのは、阿頼耶識の種子の一つ一つが力を持つということと同様である。宇宙の大規模構造は脳の神経細胞の構造と同様であるし、恒星や惑星と内臓は照応関係に在るという事柄もある。漢方やカバラのセフィロトツリーを参照されたい。マクロな系とミクロな系も、また呼応するように存在している。これを素朴な観点から説明すると、宇宙もミクロから始まり、物理法則に従って発展すれば、ミクロな系の名残が、マクロな系に残っているということだろう。これを唯識思想では、カルマが繰り返されることで、種子が阿頼耶識に薫習するという。これもミクロな系にも象徴があるという証拠なのだが、歴史というものを考えれば、ミクロな系から始まったのが事実なので、マクロな系が象徴的に出来ているのは、ミクロな系も象徴的に出来ているからであるし、マクロな系の象徴的な出来方を逆算し、ミクロな系の象徴的な出来方を説明するのも、一つの証拠になるかもしれない。
よく勘違いされるのは、象徴というのは、同様であるのだが、同一ではない、ということだ。つまり、スピ系もそれを批判する科学者も、量子力学とスピリチュアルな出来事を、同一のものとして扱っているのだが、そうではない。ただ同様なだけである。これが照応関係というものである。つまり、科学者ははなからスピ系の議論の前提に則ってしまっているのだが、当のスピリチュアルなことの研究は何も手を付けていないのである。そもそも科学とスピリチュアルなことはカテゴリーが異なり、自分たちの語彙で説明しようとしても、不足しているので議論にすらならないのだが。
話を戻して、今までの議論を追うと、魂とは身体の形相であり、形相とは形而上的な世界の事柄である。そして、この形相はどうやら潜在的な世界にもあることが分かってきた。『哲学の歴史』で物語った、世界に潜在する水や火の形相のことである。そして、魂というのは、潜在的な意識に在る。これが深遠な世界で、まだ私には分からないことが多いのだが、さしあたり、眠っている心ということが出来る。そして、心は火のようであったり、水のようであったりする。或いは樹のようであったり、花のようであったりする。神話や伝説に出てくる、火の形象や水の形象、不死鳥だったり、セイレーンだったり、世界樹だったり、あれらは全て心の元型から発展した、想像的産物である。実存的な世界から外れているが、精神的な世界には実在する。世界に存在する火や水、樹にも抽象性がある。火や水、樹というのは、その実存的な在り方を元型とし、可変的な在り方を持っている。それを私たちは想像力を以て、可変的に操る。これが魔法である。魔法がマクロな系の事物に適用されるはずはなく、精神的な領域に限定するべきである。ミクロな系に照応する、魂の領域である。
しかし、ミクロな系というのは、オカルトチックな在り方をしている。隠れているのであり、故に潜在的である。潜在的な世界というのは、その在り方から言って、抑圧されているし、眠っていると言える。今、私が魂の自由を主張するのは、この眠っている世界の諸形相を呼び起こすということが、その内容になる。
普通に、生活していて、抑圧されることは度々あるだろう。それを解放するために、運動するのも良いと思う。これは素朴な心理学が働いている。しかし、神智学的に魂の自由を、従って究極的な魂の自由を考えるなら、ただ、想像力を以て、精神に眠っているもの、すなわち世界に眠っているもの、抑圧されているもの、亡くなっているものを、呼び起こすのである。これが神智学的な魂の自由である。