「象徴的なこの世界」

 『心の研究』で書かれた「表」の章、あの思想の解説と解明をしたい。何故なら、自分でもあそこで書いたものは、どういう原理であのようになっているかが分からないからだ。しかし、自分の思想を書き連ね、その思想に類する思想を調べているうちに、だんだんとそれが明確化してきた。中でも神秘主義と象徴、これが『心の研究』で書かれた「表」を明らかにしてくれることが分かってきた。
 ここで自分の位置付けをはっきりさせ、そしてまた自分の思想を語り直すことで、これからの自分の考えが発展することも企図し、少し書いてみようと思う。
 「表」の章で何度も分からなくなるのは、五感とそれに対応するものが、なぜ対応するのか、なぜこんなにフンワリと書いているのに、依然として意味や意義が感じられるのか、ということだ。対応しているとして、それは何を意味するのか。
 結論から言えば、あれは五感の対象と形而上的な知性の関係にある。
 明らかなところから言えば、味と食べ物は、意味と言葉の象徴であると言える。これだけ読んでも訳が分からないと思うので、少しだけ説明すると、意味を呑み込む、話を噛み砕く、咀嚼する、反芻する、吟味する、等、味や食べ物が機能するその仕方、その構造は、言葉と意味のそれと共通する。これを西田の述語の論理から理解することが出来る。つまり、味と食べ物、そして意味と言葉は、それらが所持する述語を共有するのである。
 ここで、意味と言葉というのは、味と食べ物に対して、抽象的だということが分かる。そしてこの抽象的なものが、具体的なものに現れている、このことを象徴的だということが出来る。
 私の知る限り、幾つかの神秘主義では、世界に顕現しているものは全て、象徴的であると考える。例えばイスラム神秘主義がそれに当たる。
 これを前著『心の研究』でいう、眠っている世界と起きている世界に当てはめることが出来る。私たちはいつも夢中をいるのだが、眠っている世界に抽象的な、形而上的な世界が広がっている。そして私たちはそれを起こす。顕現させる力を持っている。この眠っている世界が象徴的に現れているのが、意識下の世界であり、現象の世界である。換言すれば、形而上のものが象徴的に現れているのが、形而下の世界である。
 つまり、私は『心の研究』で、五感を通した世界という、現象世界を構成するものと、形而上的な世界を構成するものの、関係性を明らかにしたかったのである。
 哲学はタウマゼインから始まる、とアリストテレスは言った。私にとってのタウマゼインとは、なぜか形而上的な存在や精神的な存在が、この形而下の存在、物質的な存在と関係性を持っていることだった。その始まりは中学3年生の頃で、磁石で遊んでいると、引き合い、くっつく様を見ていていたら、まるで愛し合う者のようだと思ったのだ。物理的であるはずの引力の働きに、愛の働きと同じ構造を見て取れたのである。
 以後、私はこの世界観をなんとかして、言語化したい、と考えていたのだが、あれから20年ほど経った今、やっと言語化することが出来た。それを神秘主義と象徴が可能にしたのだ。
私はこの象徴的な世界の在り方を解明したい。
 食べ物と言葉、その味と意味、は挙げたが、食べ物はやがて身体を作り、身体はその食べ物による匂いを発する。それは身体に纏う雰囲気を象徴する。ここでアリストテレスのいう形相を想起することが出来る。形相という形而上的なものは、形而下のものに宿るようにして存在するのだ。つまり匂いは形而下のものなのだが、それと重なるようにして雰囲気は存在する。
 私たちは言葉を選んで生きている。そして呑み込んだ意味は、形而上のものだが、形而上のもののはずなのに、まるで実体を持って存在するかのように、持続して存在する。これはどこに存在するのか、というと、融通無礙な無の場に存在する、と言っていいだろう。ここらへんはまだ私には定かではないが、阿頼耶識かM領域に存在すると言っていい。しかしまた、この事態を理解するのに象徴的な事柄が役に立つ。
 阿頼耶識でもM領域でも、意味が眠るその融通無礙な場は、明らかに宇宙空間と同様である。宇宙には宇宙網というものがある。銀河同士をつなぐように、淡く帯状に広がった水素ガスの大規模構造で、これの画像があるので、気になった方はググって欲しい。そしてまた、この宇宙網が脳のニューラルネットワークの画像と酷似しているのだが、宇宙網が別の仕方で現れたのが、脳のニューラルネットワークということは出来ないだろうか。
 そしてこの二つの画像は、仏教の因陀羅網と呼ばれるものと構造を共有している。因陀羅網というのは、華厳の説明する存在の構造と同様である。つまりはAがBであり、Cであり、BがAでありCであり、CがAでありBであり……以下無限に組み合わさる、という融通無礙な意味の場のことである。
 この宇宙網も脳のニューラルネットワークも、融通無礙な意味の場の象徴なのである。換言すれば、この融通無礙な意味の場が顕現したのが、宇宙網であり、脳のニューラルネットワークなのである。
 しかしここで一つの問題もある。脳があるから融通無礙な意味の場が成立するのではないか、ということだ。具体的なものと、抽象的なもの、どちらが先行するのか、という問題である。しかし、考えてみて欲しい。あらゆる可能性を包摂したものがあるとして、それは特殊なもので有り得るだろうか。否、特殊なものはすでに可能性が限定されたものなのだ。世界はまずあらゆる可能性を包摂したものから始まらなければならない。なぜならあらゆる現実的なものは、可能性の基で顕現しているのであり、不可能なものが実現する、というのは論理的に考えて背理である。
 そう考えれば、存在というのは抽象的なところ、全てを包摂した一般的なものから、具体的なものが顕現するように出来ているのである。
 しかしこれは決定論を全面的に肯定するものではない。なぜなら究極的に抽象的なものとは、全く不定形なのであって、だからこそ、そこからあらゆる物事が発展することを内包しているからである。ここにある事態は、抽象的なものは決定しているが、具体的なものは決定していない、という決定論と非決定論を両立するようなものである。
 以上を踏まえるなら、脳があるからでも、宇宙網があるからでもなく、どちらも融通無礙な意味の場が顕現したものであると考えなければならない。つまりは融通無礙な意味の場の象徴として、宇宙網も脳もあるのだ。これは神秘だろう。
 ところで、宇宙というのは天にあるのだし、脳というのもてっぺんにある。また形而上というのも、超越したものであり、上にあるというのは、これらの共有する意味だろう。
 そしてまた象徴的に考えるならば、宇宙に銀河があり、それを繋ぐように宇宙網があるのならば、融通無礙な場にも銀河があるはずである。融通無限な場にも星があるはずである。私たちはいわば、言葉を選び、意味を呑み込む時に、住む星を変えるかの如く、星間移動しているのである。星というのは天体というように、宇宙における肉体である。前著で少し書いたことだが、地球を構成する自然を、人間を構成するものに比することが出来る。つまり、海と地の割合は「7:3」であり、それは人体の水分と他の固形のものの割合と重なる。地球の身体が、人体に現れているのである。
 融通無礙な意味の場が、宇宙網や、脳のニューラルネットワークに現れることを考えれば、形而上的な遺伝子とでも呼ぶべきものがある。これを前著ではうつる、という原理を用いて触れていた。火山にある石が、黒々とし、ゴツゴツと厳めしくなる、火山の石らしくなる。火山の意味が、そこにある石にうつっているのである。意味はうつる。それは当然物理的な作用・反作用のことではないが、むしろ形而上的な作用・反作用という存在の象徴が、物理的な作用・反作用なのである。形而上的な遺伝子を、意味の遺伝子と言ってもいいだろう。
 大地を人間の肉体に比することが出来るなら、星という一つの地は、宇宙にある肉体である。私たちの大我は宇宙全体のことだが、小我は色んな星を選び、そこに宿り生きている。私たちは形而上的にはみな宇宙飛行士なのだ。
 言葉とは一つ一つが星である。星の光は道標となる。星の光が次に進むべき道を規定するのである。或る言葉の持つ可能性が、星の光である。
 それで星の光というのは、揺らぎ、というエネルギーの一形態なのであり、宇宙は揺らぎに満ちている。つまり宇宙は意味の揺らぎに満ちている。その揺らぎの強いものが光なのであり、私たちはそれに惹かれるように出来ているのだ。
 揺らぎというのは、引力でもある。これはきっといつか物理学でも明らかになるだろう。揺らぎというのは、私たちの意志の源泉の愛である。私が青年の頃、磁石で遊んでいた時思いついた、愛とは引力であるということは、ここで効いてくる。
 羅針盤によって私たちは向かう方向を決める。羅針盤は引力を利用する。意志は引力を、愛を利用するのだが、愛というのは惹かれるものに働き、惹かれるものというのは、星の光なのである。それは強い意味である。海に入れば、揺らぎが私たちの身体を運ぶことは明らかだ。揺らぎとは波であり、波というものが宇宙には遍く行き渡っている。闇の中にも波はある。時に、私たちは闇に呑まれる。
 このように世界は象徴的に出来ている。味覚の対象である食べ物が言葉を象徴し、その身体が纏う匂いは、物が纏う雰囲気を象徴する。雰囲気というのはオーラと言ってよく、これは最近、ある程度慣用的に表現される言葉である。しかし日常的に触れられる霊性でもある。神秘というのは、常にこの現象する世界に重なるようにして存在しているのだ。視覚の対象である映像は観念の象徴である。映像は色から成立し、色は観念の特徴を捉える。黒は心の闇や悪の観念に結びつき、白は聖なるものや純潔の観念に結びつき、青は冷静さや、知性の観念に結びつき、等々。
 音というのは印象を象徴する。印象を覚えるものとは気付くものである。そしてこの現象する世界において、気付かせるために音というのは使われる。救急車やパトカーのサイレン、目覚ましのアラーム、授業の始まりと終わりのチャイム、インターホンの音、等々。しかし印象というのは、ウィトゲンシュタインが指摘しているように、言語以前のものなので、形而上のものと言ってよい。前述した通り、印象とは融通無礙な場に触れている、直感の先端である。
 触覚はまた考え直したい。しかしとりあえずここに、観念、意味、雰囲気、印象、という知性が捉える形而上的な四つのものが明らかになった。そしてそれらは、感覚が捉える現象の世界を構成するものと対応する。五感が捉える世界の構成物は、形而上的なものの象徴的な存在になっているのである。これはまるで啓示である。
 さて、現象世界のものが、形而上的なものの象徴として現れている、ということを幾分か示せたと思う。前著では天気は気分に喩えられることを書いた。今回、改めて言うならば、天気とは気分や感情の象徴である。晴れが喜び、曇りが不安、雨は哀しみ、雷は怒り、風は愛憎を象徴する。これが意味の遺伝子がうつることによって、連綿と受け継がれ、それを発達した意識が対象化したのが、私たちの気分や感情になる。
 
付録「男女の性と心身論―体癖論とイマージュを通して―」
 
 もう一つ今回、私が書きたかったことの一つに、性の問題がある。私たちの性というのはどこで分かれているのか、という問題である。しかしもう私にはこれが明らかな回答が与えられていると思う。人間の身体は複雑な作りをしているだろう。しかし人間を構成する物質は、大半が水分であり、それ以外の主な分子は四つしかないらしい。タンパク質と核酸と脂質と糖質である。恐らく、この四つの分子の比率が、男女の心身を形成している。
体癖論により、身体の構造(骨格)が心理に影響を及ぼすことは明らかになっている。しかしもう一歩踏み込めば、私たちの肉が、私たちの心理に影響を及ぼしているのである、と考えることが出来る。私たちの身体は物質から出来ているが、物質とは私はしつこく言っているように、それ自体が感じの元になる、感じの可能態、すなわちイマージュである。
 タンパク質と核酸、脂質と糖質がイマージュであるとしたらどうだろう。これらの物質にそもそも性差があるとしたらどうだろう。
 もうお気付きになる方もいるかもしれないが、女性の身体は脂肪が男性より多めに出来ている。そして女性はやたらと糖質を取る。つまり脂肪には女性の性である柔らかさがあり、糖質には女性の性である甘さがある。これがイマージュであるとすれば、まさにこの自身の柔らかさや甘さを感じて、女性の性が出来上がっているのである。ここから女性の感じ方が出来上がっているのである。柔らかさは、優しさや、母親の包容力、弱さ、柔軟な感受性、に意味の幅を持っている。これは重層的な世界の在り方が為せる業だ。柔軟な感受性は、感情というものを素直に受け止める構造を持っている。これが女性は感情的である、としばしば言われる所以である。
 逆にタンパク質や酸で出来たものは、男性の心身を淡泊に、酸のようにきつく仕上げる。男性が感情よりも思考型であるのは、淡泊な物質で出来ているから、それが心に作用して成立しているのである。タンパク質も酸も男性をストイックなものにする。だからこそ、男性は女性より戦うことに向いている。淡泊で酸い性質は、意志を強くさせると言えるだろう。
もし抽象的なものが、物質に象徴として現れているなら、もし形而上的なものが形而下に作用しているなら、男女の性ははっきり物質にまで顕現している、ということも言えるだろう。この考えを敷衍していけば、世界を構成する物質から、それを象徴するものを明らかにし、形而上的なものと形而下のものの関係性を、もっと解明していくことが出来るだろう。私の構想としては、宇宙という大きな身体の中に、それと同じ構造を持つ無数の身体が存在しているというものだ。象徴作用は多重化し、それが重層的な世界の在り方の条件になっている。

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