「形相と質料の統一」
形相に形相を重ねることにより、質料が生成される。形相は雰囲気となって現れるので、形相は表現された瞬間、気化するのだが、この気というのはいわゆるプネウマのことである。事物も呼吸をしている、と言わなければならない。事物のプネウマが事物の雰囲気なのである。私たちの認識というのも、呼吸から考えなければならない。私たちが事物を直接に経験するというのは、その事物において呼吸をするということである。呼吸の中心には心臓が在る。その心臓の鼓動が、揺らぎを生んでいる。事物の情緒というのは、事物の心臓と呼吸を示唆している。私たちが事物の情緒に触れるというのは、事物が息づくことを知ることである。
再三書いたように、宙という阿頼耶識から、海という中間領域を通し、大地という表層意識に上がり、固まった表現は空に向けて発散される。そして空模様はまた海に移され、海を通し、宙に種子として意味は還元される。意味の循環というものが、どんな事物にも有る。この意味の循環を通し、事物の同一性は保たれているのだとも言える。形相に形相を重ねるというのも、この意味の循環がその内実である。
醸し出される雰囲気というのは、意味の循環を通し、意味が発酵されることで成立する。発酵されるために必要な塩分というのは、海にたくさんあるので、中間領域というのはまさに意味の寝床である。阿頼耶識において、ある程度練られた種子(印象)は、表層意識に上がるまで中間領域で寝かせられる。十分に意味が充満した時に、ようやく表層意識に上がってくるのである。
ちなみに宙にある気体的な意味、すなわち意味の元型を、スーフィズムでは雲と呼んでいる。これはまさしく私が考えた、空における象徴だ。雲は繭に喩えることが出来る。繭はそれだけではフワフワし過ぎていて、まるで気体のようだ。その気体を練り込むことで、糸が出来上がる。もしかしたら、超弦理論というのも、事物の究極を考えるには惜しい名前で、糸や紐より先に、雲や風があるのではないだろうか。そして糸を織りなすことで布が、つまりテクストが出来上がる。この世界の分節された事物が出来上がるのである。
なんとも感慨深いものではないだろうか。虫がこの世のアルケーを生成しているのだ。
形相に形相を重ねることで質料が生成される、と冒頭で述べたが、その形相というのも、表現されたものとしては気体的である。質料というものが、プネウマであるなら、形相というのは即質料になるのであろう。換言すれば、形相が発する雰囲気とは、事物のプネウマであり、それは私たちがクオリアや観念と呼ぶものであるので、最終的に質料と形相というのは一致するのである。しかしこれは最も現実的な見方でないだろうか。というのも、私たちは何かの形を見ただけで、すでにそこに何らかの質感を感じるのだから。ただの形がすでに内容であるのだ。
私は感情の元型は天気に有ると考えた。そしてそれをさらに遡れば、揺らぎであるとも言った。しかし、私たちの感情はただの ~ か、と言うとあまり腑に落ちない。それというのも、実際は形相に形相が重ねられることにより、ただの揺らぎにもそれに乗じて、多様なものが在るからだ。私たちの感情は単純ではない。多様な質感が出来上がるためには、形相に形相が重ねられる、意味の循環運動がなければならない。
同様にクオリアというものも単純ではない。そこには重層的に存在する形相があるのだ。それが中身である。私たちが或るクオリアから別の或るものを連想出来るのは、形相に形相が重ねられているからであり、詩的発想や象徴的な思惟が出来るのも、或る形相(或る構造)に別の或る形相(構造)が重層的に存在しているからである。
スーフィズムでは一つの神名を唱えることにより、他の神名も呼応して現れるという。この事態にあるのも、神名というのが一つの元型であり、他の元型を包摂しているからで、まさに形相に形相を重ねている、という世界の内実があるから成立するのだろう。
最初の方の話になるが、事物の呼吸を感じるというのは、事物が発する雰囲気を、換言すれば、事物の発するプネウマを、その風を、そのまま感じるということである。そこに微細な情緒があるのであり、息に乗せて情緒が運ばれてくるのである。あたかも風に運ばれ天候が変わるように。ここでも感情の在り方と、天候の在り方が照応関係にある。
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