『呪術的、或いは魔術的世界観』
魔術、呪術というのは、変性意識が為しえる業である。末那識や小我、自意識というものを、滅し続け、その挙句、辿りつく境地に呪力や魔力というものがある。そして魔力のある世界には、この世界を抽象化したものが在る。実存する具象の世界と対比的に、実在する抽象の世界があるのである。
例えば、セイレーンというものは、その語が転じてサイレンとなった。警告や警鐘の意義で使われるわけだが、セイレーンにその意義がないわけではない。セイレーンの歌声は船乗りたちを迷わせようと、誘惑する。船乗りたちはセイレーンを警戒するため、その意義が保持されているのである。抽象的な実在の世界は、阿頼耶識の動的な意味の場を映す。今でこそ、サイレンという語に固定され、動きを止めた意味があるのだが、サイレンがセイレーンであった頃、その意味の動きは、今よりも豊かであったはずだ。そこには生命があった。
魔力というのも、呪術というのも、マクロな系の事物に直接働きかけるわけではない。精神的な世界に働くものである。セイレーンを召喚するというのも、セイレーンがマクロな系の事物として、顕現するわけではない。私たちの精神的世界に発現するのである。例えば、不動明王をイマージュとして持つ時、私たちは小我の力より、遥かに大きな力を得る。神に祈るというのも、小我の力を超えて、より大きな力を得るために、神に祈るのである。小我というのは、末那識のことであり、自意識という限定作用を持つ意識により、形成されたものである。それ自身、限定されているものが自意識であり、この自意識を滅し、催眠状態に入ること、換言すれば、忘我の状態に入ることが、魔術や呪術を行使することの鍵になる。自らを見ることなく、夢中の世界に入り込む、この夢中の世界が阿頼耶識であり、この阿頼耶識に潜在する力を行使することが、魔術や呪術なのである。
呪術というのは、何度も唱えることを要する。呪い(まじない)であっても呪い(のろい)であっても。何度も唱えること、力強く、念を込めて唱えることで、阿頼耶識にその痕跡が残る。それは記憶の中の種子になり、その種子が刺激されると、種子は発現する。この種子を起こすのは、奇しくも末那識である。動物も植物も、呪術や魔術を使えない。というのも、彼らは記憶に何かを留め、それを想起するという機能が、人に比べ、弱いからである。末那識の力は反射である。しかし、ただの反射ではなく、反復的反射である。脳が発達しておらずとも、身体も事物も、何かの作用に対し、反作用を起こす。つまり反射作用を持つのだが、脳はその反射作用を、さらに反射するのである。これが人間の持つ反省作用である。動物や植物、無機物も、阿頼耶識の中を生きている。それは自らの反射を反射しない、ただ反射のみをする世界である
ところで、呪物というのは、無機物がただ反射するという機能を生かした事物である。人間が念を込め、何かを形象化する。事物というのは、ただ反射をするのみであるから、人がその時込めた、呪わしい形象化に従うのみである。その形の相、すなわち形相が呪いとなる。呪物を動物が見ようと、植物が感じようと、彼らはそれをどうすることもない。彼らは呪いを呪いとして反射するのみである。しかし、人間は呪いというものに反省的である。末那識というのは、反省作用を持ち、それが理性的な制御という力を形成したので、呪わしいものに対し、どうにかして直そうとするわけである。つまり、呪物には制御不能な混沌とした世界、阿頼耶識が映っているわけで、それに対し、畏怖を覚え、直そうとするのである。人間は制御不能なものに対し、自分をどうにかしてしまう力を感じ、恐怖を抱く。動物の場合も、自分をどうにかしてしまう力に恐怖を感じるのだが、人間より自意識が薄く、どうにかしてしまう力を反射する、次の段階、その力の反射まで、彼らの脳は働かないのである。だから、動物は人間より流されやい側面を持つ。本能という、阿頼耶識の力に抗えないのも、末那識が発達していないためである。
呪物というものが、マクロな系の事物に、直接的に何か働きかけるということは考えにくい。しかし、呪物に魅入られてしまった人の精神は、少なくとも微かに病む。というのも、人間の精神がそれに感応するからであり、その感応自体は自動的に起こるからである。しかし、意志を強く持てば、その力に流されすぎることはない。
呪術というのは、阿頼耶識に種子を植えることで、そこに感応する精神に対して行われる。それは良く行えば、祈りにおいて、願いや感謝を意識化することで、精神を高める作用と同様であり、まじないになる。これを悪い言葉や念ばかり、繰り返し唱えれば、呪いになる。自らの記憶に溜まった、言葉や念は、それに感応するものを呪う。自らの記憶に溜めた、
言葉や念は、雰囲気を象る。その者の持つ雰囲気が良いか悪いか、というのは、繰り返し唱えられた言葉や念による。これを唯識思想では、阿頼耶識に種子が溜まり、その種子が薫習(くんじゅう)し、習気(じっけ)になる、と言表する。
魔術というのは、言葉よりもイマージュを使う。呪術というのは、東洋的なものであり、東洋的な体癖はイマージュを普段使うのだが、阿頼耶識においては言葉を使うのが、なんとも面白い。魔術は言わずもがな西洋的である。しかし、呪術も魔術も、その共時的構造は同様である。魔術は象徴的イマージュを使う。世界に存在する具象を抽象化し、それを創造的想像力により、発現し、その力を借りるのである。そして、具象の抽象的な形は、阿頼耶識に眠っている。阿頼耶識に眠るもの、その抽象的な形の存在を、叡知的な存在だということが出来る。
ところで、魔術というのも、呪術というのも、昔の方が遥かに盛んだったのは、周知の通りである。科学が発展したことで、魔術と呪術の存在が脅かされ、ほとんどパージされてしまったのだが、精神的な領野、そして、その潜在的な領野を蘇らせることで、また意義を持つようになる。私が本著で示したかったのは、魔術師や呪術師が生きる世界である。
統合失調症や精神病の人というのは、小我がボロボロである。ほとんど破壊されている。人によっては、不幸にあった人ほど、霊感があるという人もいる。原理を理解すれば、一理あるのは明白である。
統合失調症の人は催眠状態に入ることが上手い。彼らは阿頼耶識に行くことが多いだろう。阿頼耶識というのは、まだ自意識によって秩序付けられていない、混沌の場でもあるので、妄想も起こる。本当は、現実の世界と阿頼耶識を対応関係にさせなければならない。ちなみに、近代魔術は、事物の背景のこの混沌を看破したのだろう。ゼンゼロのモチーフである。そして、精神病に対する有効な薬は、けっこう最近になって出来たことは留意すべきである。つまり、処方薬が出る前、精神病の人たちは、阿頼耶識に入り放題だったのであり、現代に比べ、その魔術や呪術のリアリティの次元は著しく異なるはずである。恐らく、精神的領野において、魔術や呪術が有効であることを熟知していた者は、いたはずである。私が、現代におけるオカルトに対する大きな勘違いを、指摘するまでもなく、真の呪術的、魔術的世界観に生きる人たちは沢山いたはずである。
これらは単なる空想や妄想で片づけられる問題ではなく、精神的領野における実在する世界である。現代はロゴスが発展し、法が発展し、反省的意識により、秩序付けられた社会になっている。そして、阿頼耶識に行き過ぎる者たちは、化学薬品により抑制され、もう少し現実を生きなさい、と暗に命令されている。しかし、私にはどうも、諸事物で構成される現実だけがクローズアップされ、阿頼耶識に対する視座というものが、決定的に欠けているように思える。これは単に漫画やアニメだけに残されるべき、文化的な問題ではない。人間の精神の話なのである。