『潜在的アストラル体』
アストラル体とは何だろうか。シュタイナーにおいては、アストラル体は動物から生まれるし、エーテル体というのも植物から生まれる。鉱物などは、アストラル体もエーテル体もないのである。しかし、私はこれに異を唱える。物質にもアストラル体とエーテル体があると考えるのだ。しかし、潜在的な形で存在するのである。私の今までの議論の通り、植物はエーテル体というものを起こしたし、動物もアストラル体というものを起こした。召喚するように。エーテル体もアストラル体も眠っていただけなのである。
例えば、呪物というものを、潜在的アストラル体を想定せずに、どうして説明出来るだろうか。呪物は、物質における記憶というものを想定しなければ、そこで起きている事象を説明出来ないだろう。生命の進化というものを、通俗的なものに従って理解するならば、それは意識の発達である。植物より動物の方が意識は発達しているし、動物より人間の方が意識は発達している。
しかし、意識というのも、無意識と混合体として存在していることを忘れてはならない。意識は無意識に働くし、無意識は意識に働く。ただ、身体の進化にしたがって、意識がはっっきりしてくるので、意識と無意識が分節したのである。しかし、『心の研究』で示したように、物質にも意識の元型というものがある。天候にはアストラル体がすでにある。今、改めえて物質の意識というものを考えるならば、それは力である。物質の持つ力は、いつも何かに向けて在る。それは対象を持っている。力とはいつも何かに対しての力である。
エーテル体は生命体とも言い換えられる。アストラル体は意識体と言い換えられる。生命という力は意識という力に向けられている。この関係を井筒の意識の構造モデルに照応させて考えることが出来る。つまり、アストラル体は阿頼耶識であり、中間領域(想像的世界)はエーテル体である。生命体は意識体に働きかけ、そこから素材を拾ってくる。その素材は阿頼耶識に潜む印象である。
阿頼耶識というものが内臓と照応関係にあることは、『魂の研究』で記した。阿頼耶識とは、別名、蔵識であり、それが肉付けば、内臓の臓になる。つまり、私たちは内臓で以て、印象を抱握する。これぞ直感の原理である。私たちが、目という器官で景色というものを捉えるように、耳という器官で音を捉えるように、潜在世界における情報を、私たちは内臓で感応するのである。情動というものが印象の形態であり、情動と内臓の働きが即応するものなら、この機能も無理はない。情動と印象の関係はヒュームが記述し、情動と内臓の関係は漢方が記述している。
内臓が記憶している、という事態は、小説でもよくあるだろう。より潜在的なものを、身体のより潜在的なところで捉えているのである。それは微細過ぎる情報が故に、働き自体が精妙な内臓で受け止めているのである。ここはまだかなり研究の余地がある。
そして内臓で受け止める情報というものを、高次元の存在に移したものが、アストラル体なのである。試しに見てみよ。植物と動物の違いは、臓器の違いにある。動物的本能は内臓に依拠している。そして記憶に留めるという事柄は、物事の印象化ということであり、それを受け止めるのが臓腑なのである。腑に落ちるという言い方は、この事柄に対応する。その高次元な存在がアストラル体である。『魂の研究』で述べたように、アストラル体とは臓腑の形相なのである。
さて、アストラル体というのは記憶の霊的貯蔵庫であるのだが、それはエーテル体と呼応している。シュタイナーが示したように、エーテル体の養分はアストラル体である。ここには『心の研究』で示したような、食べ物の関係がある。つまり、阿頼耶識に送られた言葉は、印象という養分になる。そこにエーテル体という触手のような器官が、自らを伸ばし、養分を摂取するのである。この関係は何度も言うように、阿頼耶識と、そこに働く想像力との関係である。つまり、想像力という器官は、愛と意志という、引力のような力で成り立つ、生命力なのである。想像力自体は未だ形象化はされていない。印象に志向性が働くことにより、次第に固体化されていき、表層的世界の事物と同様に、意識されるようになるのである。
想像力の有様は、エネルギーのある方へ身体を伸ばす、植物と同様である。エーテル体は植物にもある。しかし、神秘哲学的に翻ってみれば、阿頼耶識というのは、世界の発生のルーツである。そこに照応するアストラル体というのも、ただ人間にだけあると考えるのではなく、そもそもルーツとして持っていたと考えるのが妥当である。
呪物というものには、呪力がある。怨念や哀愁に向けて、かかる力がある。この力というのは、呪物に潜在的に働く力である。そして、これは観測者が主観的に抱く印象ではなく、そもそも、形象化された物体の形相なのである。そもそも何かの形を留めるという事柄は、記憶するという事柄の元型なのである。それは力を留めるという事態である。力は意味になる。力というのも、物理的に留めるべきものではなく、形而上的に考えるべき事柄である。概念の拡張を図りたい。そして力が留まる時、そこに力の形相も留まるのであり、この形相が留まる領域は他ならぬ阿頼耶識である。形相という概念を、物理的な範疇に適用すべきではなく、ここでは形而上的な範疇が必要となる。潜在的かつ形而上的な範疇は阿頼耶識という言葉で表せられる。
こうして、物質の形相が留まるところを、阿頼耶識と措定すれば、阿頼耶識に照応するアストラル体というものが、物質にも在るのだと考えることが出来る。そして、これこそが、私が夢想していたアニミズムを解明するのである。
物質に留まる形相は力を持っている。その力は引力のように心を惹きつける。その力に呼応するように存在者は在る。この世界に遍在する力に呼応すること、これぞアニミズム的世界観の奥義である。物質もまた声を持つ。この物質に宿る声を言語化すること、これは
クロウリーが構想していた魔術にも通じる。物質にもアストラル体があると想定すれば、自らを物質に夢中にし、したがって自らの星幽体(アストラル体)を物質と合一させることにより、物質に感応し、物質に眠る魂を呼び起こすことが出来る。これは当然、動植物、人間にも可能なことだし、人間ほど情報量を多く持つ魂なら、私たちはその人間が持つ言葉を、意味の錬金術により、印象の方まで還元し、その種子に感応することで、他者というものをますます理解出来るようになる。
魔術には、元々アニミズム的世界観が必要なのである。世界のエレメントである、火や水、木や風、土などの力は、それらに潜在する形相を呼び起こすことにより、成立するのである。大体、アストラル体としての物体を考えた方が、物理学の発展にも寄与することは、間違いない。物質の手触り、質感などを、その物質の魂の自覚により、知覚可能な範囲は広がるはずだ。
エーテル体というのは、アストラル体が発する光の領域であり、逆ではない。アストラル体、言い換えれば、元型的星々が発する力と表層的世界の間にある領域、そこがエーテル体の領域である。つまり、潜在的アストラル体を考える場合、必然的に、潜在的エーテル体も考えられることになる。