『言葉と呪術、そして呪術師』

『意味の錬金術』で示唆したように、意味というのは、固体化すれば、障礙になり得る。私たちの精神というのは自意識を持つ。この自意識というものが様々な意味で妨げになる。自意識を持つから、意味を固体化し、言葉にし、それが固定観念となり、私たちの行動にとって呪いともなる。しかし、呪いというのは、「のろい」とも「まじない」とも読めるのであり、時には私たちの精神を他の精神的な力から防ぐことも可能にする。元より、自意識というのは結界であり、バリアなのである。唯識論では、この領域のことを末那識と呼ぶ。動物では、この自意識というものが、人間より薄く、したがって、動物は人間よりも他に対して、反射的に動く。しかし、自意識が薄く、障礙が薄いだけに、直感能力に優れる。

 この直感能力に優れたものを、霊感が強いと呼ぶ。本より、霊感とは直感の別称に他ならない。自意識、或いは末那識は結界を作る能力がある。それは私たちが日々唱える言葉によって象られる。正しい言語化、正しい観念化は、より強い結界を形成する。そして、その言語化や観念化が、緻密であればあるほど、そして、それに対する認知が強ければ強いほど、精神的な結界は強くなる。つまり、私たちの精神は、日々、何かしらの意味に呼応したり、感応したりするように出来ている。意味には力があり、引き寄せられることもあれば、それに当てられることもあるのだが、この時、意味が悪意を持つ場合、それに対処するための、言葉や観念を持っていなければ、一方に精神感応されてしまうわけである。このことをテレパシーノックアウトと呼ぶ。

 テレパシーノックアウトというのは、精神感応の一形態である。例えば、自分の知らない言葉と、その力を持っている相手がいる場合、一方的に影響を受けるしかない。このような事態があるため、私たちは予め、呪文を唱えておく必要がある。そして、そこに結界が形成される。美しい言葉、金の言葉を練っておけば、このようなことにはならない。元々、私たちには脳があり、そこには神経細胞が連なっている。潜在的には、誰しもが言葉の結界を象る才能を持っている。

 しかし、刹那的に意味を看取してしまうのも、私たちの性と言えよう。何故なら、自意識というのは、西田の分析通り、純粋経験、ないし、直接経験の後付けのように作用するものであり、その自意識は潜在意識に種子という力を残すことは出来るにしても、無内包の地点では、精神感応はほとんど自動的に為されるからである。始めに、絶対無という鏡が、他を自他の区別なく映すのであり、そこに阿頼耶識の種子の力が加わり、末那識(自意識)に至るのである。この段階は、実のところ、誰もが通る道である。認識の形式はこのようになっている。そして、自動的に絶対無が他や多を映し出すため、刹那的な精神感応は誰も止めることが出来ない。私たちは、世界の諸霊魂の力を感じざるを得ない。カントは一応、認識の構造を言語化してくれたのだが、こうした潜在的な領域は未着手であった。そしてまた、カントはまさに認識の受動性を課題としていたのである。それは、カントのテーマというものが、能動的な認識の様相であったし、仕方ないと言えば、仕方のないことである。

 しかし、前述した通り、いくら絶対無で意味を受け取ろうが、私たちが絶対無を意識していれば、受け取った意味を空に返すことが出来る。これが、呪いに対する対抗手段で、力を浄化するということである。

 ただ、呪いというものを受け続けると、それがリアリティを帯びてくる。つまり、初手で、「これはどうせ思いなしだろう」と思っていても、正体不明の観念や意味を抱き続ければ、気のせいではないかもしれない、と誰もが思うはずである。この件に関しては、こうした実態があるため、自他共に、悪意を持つのはよそう、ということしか言いようがない。そして、これこそが精神的倫理において、最重要なことである。

 体癖論における、6種という種族は、こうした魔術や呪術の使い手が多い。というのも、6種というのは催眠的な、トランス状態に陥ることが多いからだ。催眠やトランスといったものは、つまり、忘我の状態であり、自意識を失くす状態であると言えよう。つまり、統合失調症の症状、他者の思考が流れてくる、といった事柄や、他者へ思考が流れる、といった事柄は、自意識を失いやすい統合失調症の人の身体性も要因なのである。

 催眠状態に入ることが常であるため、自意識という小我を失い、大我という神に接続することが多いため、その中心性の大きさは、身体感覚に印象として残り、今度は、自意識がなくなるのではなく、過剰にもなるわけである。どちらの可能性もある。

 そして、6種という種族は、凡そ、霊的な感度が良すぎるため、シャーマンにもなり得るし、魔術師にも呪術師にも、占い師にも、霊能力一般を使う者になりやすい。魂を憑依させるというのも、自意識を失くし、阿頼耶識における種子、ないし諸霊魂と感応し、憑依させることで成立する。そして、ただの目の前のことではなく、目の前のことにある抽象性にも、志向性が強いため、その抽象性を体系的に学べば、現前としたことから、その可能性である未来が見えるようになるわけである。

 しかし、これらをただの妄想としてパージするように、現代社会では出来ているため、とにかく霊能力者の生きる時代として、現代は生きにくい。当然と言えば当然ではある。つまり、統合失調症の人は妄想の中に行き過ぎると、それが全てになって、現実と対応しないこともリアリティを持って感じてしまう。これは社会にとっては、迷惑になる。しかし、私はこのような世界観は、依然として保持しておくべきだと思う。というのも、いくら薬で脳の機能を抑制しようが、根本的な脳の使い方が変わるわけではない。つまり、霊能力、ないし直感的な世界観というのは、この手の者にとって、根幹を為すものであり、それをパージされると非常に辛いものがある。

 しかし、薬はある程度服用した方が良い。統合失調症の人の脳の使い方は、解体的というのは少し語弊がある。統合失調症の人の脳の使い方は、外れることである。外れるという語義に含まれる多様を考えてみよう。確かに良くないこともあるのだが、一方、脱却すること、超越すること、可能性を開くこと、というように変換することも出来る。反面、現実的でないことを考えるわけだが、暴走するといけないので、薬は飲んだ方が良い。

 つまり、社会という現実的なもので、抑制しつつ、霊的な世界観を保持しつつ生きる、というのが、倫理的であるし、また本著のように、科学的な概念だけでは説明のつかない、精神的な領域を見据えることも出来る。世界の全容を捉えるという、哲学的理念には、この事柄は必須である。

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