「哲学的断片」アルケーとしての情緒

 直感が触れている融通無礙な場に、形而上的なもの全てが含蓄されているのではないか。融通無礙な場における最もシンプルな形式は、揺らぎである。揺らぎを波としてみてもいい。この波が働き合うことによって、融通無礙な場は融通無礙な場足り得る。阿頼耶識における元型とは、反復し固定化された波の働き合いである。元型は未だ具体的な事物ではないのだから、それは述語的な側面から考えられるべきである。述語的な側面とは、波の働き合いによって、規定されたその働きのことである。つまり、西田の言う述語の論理と、その一般者とは、この阿頼耶識の元型のことである。
 私たちはこの阿頼耶識の元型のことを、ユングにならってエイドスと呼ぶことが出来る。エイドスとはイデアを批判的に継承したものなので、その内には幾分かイデアの意味が含まれている。イデアや物自体というものは、この純粋な働きのことである。対象ではなく働きである。その働きに触発され、認識が成立するのである。
 イデアやエイドスだけではなく、形而上的なもの全てが融通無礙な場に含蓄されている。形而上的なものとは、事物のような対象ではない。それらは具体的な個物ではない。ここではさしあたり意味のことだと理解して良い。この意味が具体的な個物のように、同一性を持っているとは言えないのだが、それにしても同一性を持っているのは、物として固まっているからではなく、働きの中で、ある一定の働きをすることにおいて、規定されているのである。
 例えば、前著で少し書いたことだが、愛という形而上のものは、物理的な領域では引力として顕現している。引力は愛を象徴している、ということが出来る。愛に含蓄される述語の領域は、引力の働きと共通した構造を持っている。
 また、前著の『表』の章で書いたことは、全て阿頼耶識からM領域を通して、顕現するものに至る道を説明したものになる。順序は逆だ。つまり抽象的なものから、具体的なものに顕現する、という過程を経たわけではなく、具体的なものから、それが象徴するものを探り、そこから宇宙の始まる前まで遡り、全ての存在の元型である「揺らぎ」に至ったのだ。
 前著でいう具体的なものとは、見えるものや、聴こえるもの、味わうもの等、経験可能な具体的なものである。それは味覚で言ったら、食べ物や飲み物、その味ということになり、それらが象徴するものは、言葉とその意味、ということになる。
 それらをさらに遡ると気分や感情的なものになる。最も根源的なもの、すなわちアルケーがなぜ気分や感情的なものになるのか。前著でも少し書いたことだが、知情意、真善美、過去・今・未来、等の対応する三項を持つものの中で、時間で言えば今が最も力点を置かれるところになるのだが、今に対応するのが情であり、美であるからだ。
 意志は未来に対応し、善に対応すると考えると、真理は知性に対応し、その特徴的な在り方は知識であり、記憶であるのだから、過去に対応することになる。美と情は一つであるのは直感的に分かることで、消去法でそこに今が対応することになる。
 そう考えれば、心にとって最も力点が置かれるのは気分や感情的なものであることが分かる。少し前に戻って、融通無礙な場において、最もシンプルな形式は揺らぎであったが、この揺らぎとは、まさに気分であり、感情的なものである。
 そこには気分の上がり下がりである、抑揚や、驚きになる動揺、ユラユラとした不安、イライラとした怒り、等々、気分や感情的なものを表すことの出来る意味が、含蓄されている。私たちは心が通じている融通無礙な場における、揺らぎを直感的に感じている。それが気分や感情的なものの正体である。これがエネルギーとなり、それに突き動かされ意志し、それに突き動かされ志向性が働いている。つまり、この融通無礙な揺らぐ場が、気分であり感情的なものであり、そこにおいて私たちの知性も運動しているのである。そこにおいて、意志も働いているのである。この融通無礙な場においては、知情意が未分の状態である。
 思考の場も、ほとんどはこの融通無礙な場だと考えて良い。知情意が未分の状態であることも考慮すれば、正確に言うと思惟の場になるだろう。直感的思惟とでも呼ぶべきものがある。私たちの無意識的な思惟はここで働いている。だからこそ、私たちは思惟において、真理に辿り着くことが出来る。なぜなら、先ほど言った通り、イデア的なもの、エイドスもここに存在しているからだ。大乗仏教では仏が万人の心の中に居る、と説くそうだが、それに近いかもしれない。
 融通無礙なこの場において、気分や感情的なものがあるから、私たちは他者の気分や感情的なものを察することが出来る。気分や感情的なものは、他者とその場を共有しているのである。しかし無意識の領野であるし、私たちは心を持つ存在であると同時に、物という存在でもある。個性的な私たちの存在は、融通無礙な場の中でも位置付けを持っている。位置付けを持つ事物的存在であるが故に、揺らぎの中にいても、近くのものの揺らぎに煽られやすいし、遠くのものの揺らぎには影響されにくい。
 私たちの存在にも、元型のような予め決まっている働きがある。それが私たちの個性である。近くにいる他者の揺らぎを、私たちはその情報を以て知覚出来る。当然だが、直感と言っても、それを意識しなければ知ることは出来ないので、意識しやすいのは近くにいる存在になる。意識は強い揺らぎに煽られるように出来ている。揺らぎとは時に風のようだ。気分を天候に喩えるなら、それを揺らがせるのが風なのである。
 前述した通り、物自体の世界とはこの働きのことであるなら、物自体の世界とは、物言わぬ沈黙の中にある死の世界ではあるのだが、その世界は感情的なエネルギッシュな世界だということになる。物から発せられる情緒や趣というのは、ダイナミックな融通無限な場がその由来となる。発せられる、という時点で何かしらのエネルギーではあるのだが、むしろエネルギーそのものが物の情緒や趣にはあるのだろう。
 なんとなく寂しい景色、物悲しい風景、こういう感情をただの物の集合体であるはずの景色に感じることがある。それを感じさせるのは、単に人間の主観的で心理的なものに過ぎないのではなく、客体である物にも情念があるからである。
 しかし、私たちの素朴なイメージでは、物質は感情を持ち合わせていない。何がどうなっているのかと言えば、物質というのは対象化することがないというだけだ。人と物質の心の違いは、意識の発達の違いである。しかし意識というのも、その原初においてはただの反射的な作用に過ぎなかった。しかしこの反射は、思ったよりも神秘的な意味を含んでいる。例えば動物だって意識を持っているが、動物はただ世界を反射するようにしか意識を使っていない。しかし意識の発達は、反射したものを再度反射するということを可能にした。それによって表象や観念、クオリア、等の概念が可能になる。そしてまた物語における虚構が可能になる。経験したものを再度対象化することで、虚構を作り上げることが出来るのだ。それと同じように、ただ単に視覚的に経験したトマトから、あの赤い感じだけをまた対象化すること、それがクオリアを起こすのである。動物には物語を想像することがほとんど出来ないし、経験をまた対象化し、その感じを抽象的に捉えたクオリアという概念を考えることは出来ない。つまり動物には対象の対象化が出来ない。しかし人間は脳が発達したおかげで、対象の対象化、換言すれば、反射の反射が出来る。そして人間はその反射の反射を繰り返すことで、経験を反射し尽くし、経験を超えることが出来る。つまり、経験を対象化し尽くして、抽象的に考えることの出来る世界、それが形而上的な世界である。ここに理性がある。厳密に言えば、反射を何度も繰り返さずとも、経験の反射はすでに経験を超えているので、ただ単に肉体的に生きるのではなく、精神的な作用で生きることが出来るのである。
 さて、物質は意識が発達していないのだから、物質が放つ情緒を、対象化することはない。したがって物質が自身の内部に感情を感じることはない。しかし、物質には経験というものがない。そもそも死の世界に居るのだから。しかしそれは却って世界の限界、すなわち世界自身として存在している証である。つまり、動物が経験という反射で捉えた世界の内部にも、物質は存在しない。経験の反射という形で辿り着く、人間が刹那的に辿り着く世界、物質はただそこに存在しているのである。物質は何も語らず、沈黙の内に自らという世界を示しているだけだ。しかし、その世界自体、という世界の根源は、融通無礙な揺らぎの世界なので、物質はその揺らぎを示し続ける。物質は自身の感情を自覚しないが、示し続けるのである。
 この議論を可能にするためには、世界の内に世界が無限に存在する、という論理を展開しなければならない。永井均が言う〈私〉の中に、さらに無数の〈私〉を考えるのである。物質は一つの〈私〉である。このような考えは、例えば華厳やモナドロジー等が同様である。私たちが認識するのは、いつも一つの世界である。世界の中の幾つもの世界が、自らを表現し、自らの意味を放ち、それが響き渡り、反響し合うような世界、それが〈私〉の中に〈私〉が在る世界観だ。ただ単に意味が重なり合うという重層的な世界から、意味が作用し合う重奏的な世界に行く必要がある。
 私たちが認識する本当の他者とは〈私〉である。私たちの世界に〈私〉だけが存在するなら、〈私〉は何を認識し得るだろう。神秘主義的な哲学とは〈私〉を複数化するところから始まる。それは絶対無という場所から、形而上的な多様性へ、それが即顕現する、世界の実相への哲学である。そしてその多様性のアルケーには情緒が在る。

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