2022年ふりかえりシリーズ1【トマス・アクィナス編】 ~やっぱりすべての根本感情は愛なのである~
神学と哲学を融合させた、13世紀を代表する哲学者トマス・アクィナスは、あらゆる感情の根本には愛があると言っているそうな。
(詳しくは、山本芳久先生の本を読んでみてネ!)
私はトマスの肯定的かつ対話的姿勢が非常に好きで、死ぬまでに読みたい本リストに彼の著作『神学大全』(全45巻👼)が入っているのだけどまあそれは置いておいて。
私の2022年の根本も、愛だったなあと。
もう少し詳しく言うならば、愛されようとして、実は愛されていて、愛そうとし続けていた1年だったなと。
愛って、異性との恋愛ってことだよね?
今の地球よりも持続性が見込めない私の記憶力で思い出せる2022年は、2年付き合い続けた人とのお別れから始まっている。
しんどいことへの忘却速度は音速よりも早いワタシ、今となってはちゃんとお別れを乗り越えて、元パートナーには感謝の気持ちでいっぱいだけども、カレンダーや日記を見返していくと、ちゃんともがいていた形跡が見受けられる。
あー、分かりやすく、異性から愛されようとしてたんだなーって。
「愛される」っていうものを、すごく表面的な行為に求めてたんだなーって。
その愚かな「愛って、異性との恋愛ってことだよね?」ムーブメントは、6月まで続いていて震えた。
元彼さんの存在があまりにも大きすぎたが故に、(もうあの頃の私は完全に依存しきってたなって今は思う。)その支えを失い、崩れかけた人生のバランスを、「元彼と同じ形をしている存在」に支えてもらおうとしてたんだと思う。
俗に言う、欠けた凹を埋めてもらうための存在!
じぶんを完成させるために、相手を穴に当てはめるということ!
嗚呼なんてこったい、相手に失礼。
全くもってヘルシーではない関係性!
…つまりはじぶんを形成し、維持するための燃料としての愛が、全然足りてなかった。(私は元来、自己愛が足りない人でしたから尚更…)
そんな愛に飢えた飢餓状態が、時間的な割合で言うと2022年の半分を占めておりました。
それ故、恥ずかしながら、男に振り回された半年間でございました。
私、キッモーイ!
アレッ!?愛、なんかメッチャ貯まっとる!
その自己という形を保つための愛をくれたのは、実は、恋愛としての異性存在ではなく。(多少はそれもあったような気もする)
定義が難しいけれど、信頼という愛と、家族愛?だったのかなあ。
しかも面白いのが、「ワタシ今、メッチャ愛されてるぜッ!」って意識的に思った瞬間は実はあんまりなくて、今ふと愛のチャージ量を見てみたら、「アレッ!?なんかメッチャ貯まっとるがな!?」みたいな体感で。
気づくのに時間がかかったけど、ちゃんと愛されておったのです。
気恥ずかしいから名前は出しませんが!
私がこれから一緒に未来を創っていくコミュニティの方々、
そして私の住まいでできた、(きっと一生ものの)大切な相棒。
(愛されることに疎いからちゃんと気づけてないかもしれないけれど、きっとお友達だったりまちの人だったり、本当はもっと私を愛してくれてる人はいるんだろうな!)
「誰からも愛されてない、愛されたい」って思いがずっとどこかにあった私が、少しずつ愛されてることへの自覚ができるようになってきたのは、愛そうとする自分の働きかけが大きいような気がしています。
幸せに生きていられているということは、少なからず愛されているってことで、「愛してもらう」総量や働きかけが大きく変わったのではなく、「愛してもらう」対象としての私の器や心のもちようが、変化したことがデカいんじゃないかと。
言うなればそれは、自分を愛そうとする自分の働きかけの変化でございます。
愛の蓋が、パカッと外れた感じ。
大前提として話しておくと、私は私を愛すること=ちゃんと大事にして、ちゃんと評価してあげることがとってもニガテです。
だからいくらカレンダーに「お休み」「休息」と自分に必要な時間を予定として入れても、他者や他存在を優先して予定を簡単に入れてしまうし。
PMSで稼働率が下がるってわかっているのに、休みを1日も入れずに頑張って、過呼吸を起こして駅で動けなくなったりするし。
半年前のインターンのふりかえりで、「もうちょっと自分を褒めてあげてもいいと思うよ」というフィードバックをもらうくらいには、自分に対してとってもシビアに過小評価していました。
それは「愛されたい、認めてもらいたい」という欲求の天邪鬼的な現れだったなー、なんて。
今朝、ふりかえりのイヤーコンパスワークの残りを埋めながらハッと気づいたのですが、私はじぶんが受け取れる愛には上限があると無意識に思い込んでいたんだと。
図解すると。
上限があるから、自分を過小評価・卑下・行き過ぎた頑張りや自己犠牲をすることで内容量を減らさないと、他者から愛をもらえないと勘違いしていて。
しかも愛の上限が愛の最低量でもあったから、また最悪。
少しでも足りないと、「頑張ったはずなのに…なんで!?」となっちゃう。
ウワー、こういうことだったのかァ、と2022年も暮れになってようやく自分の過小評価を構造化することができたのです。
この自己卑下癖は、ホントにホントにホントに自分の中で根深い問題で、この構造に気づけたことは、2022年、いや22年の人生の中でも指折りの出来事・成長で。
無意識に愛を注がれてもらっていたから、自分が自分を愛そうとする動きができるようになったのか、自分が自分を愛そうとしたから周りからの愛を感じられるようになったのか、
そんな鶏が先か卵が先かみたいなことは正直どうでもよくて。
愛の上限を定めて、私をずっと苦しめていた蓋がパカッと外れたこの感覚は、なんだかとっても清々しいものだったのです。
私は目的的に人生生きているタイプではないですが、この1年を現在から遡ってつないでいくと、愛される(愛してもらう)ことの模索を通して、自分を愛すること、周りから愛されていることに気づこうとしていたのかな、と。
やはり愛は全てにおける根幹の感情だと思います。
だって2022年、この自分への愛、愛されていることへの愛をベースに、私の出来事が動いているんだもの。
さて、2022年のふりかえり~トマス・アクィナス編~はこの辺で。
まだまだ書きたいことが溢れているからねーッ!
タソのふりかえり、~西田幾多郎編~へ、つづく!