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2022年ふりかえりシリーズ2【西田幾多郎編】 ~絶対矛盾的自己同一は世界を救う~

注意:本文は西田哲学の沼にハマる危険性があるので、読む際には自己責任でお願い致します。ハマったら西田仲間ができたー!とタソが喜びます。


ワタシの卒論のテーマ、「西田哲学からみる環境倫理」。
私の4年間の集大成は、西田哲学の理解と環境倫理との接続といっても過言ではない。

「誰?」と返されることが殆どだが、西田幾多郎大先生は、日本の代表的な哲学者である。西洋の「有」の文化と対象に、日本ならではの「無」の思想や文化を哲学的に体系化させるという功績を遺した一方で、その人生は、実は悲哀に満ちている…(私が最近よく「人生は悲哀に満ちている…」とほざいていたのは、西田幾多郎大先生の影響です。うるさくてごめんね。人生幸せです。)

「西田哲学」と言われる彼の思想は、難解だと言われるそうな。(ンなこたぁねえよ、ヴィトゲンシュタインの方が理解に苦しむわ!と私は思う。)
難解なのかもしれないけど、理解できないことはないと思う。
彼の思想はちゃ~んと一貫しているし、なんならその一貫性を理解できれば、奇々怪々な話でもなんでもない。
(夢野久作のドグラ・マグラ的な難解さだと思っている。)
入門で言うと、小坂国継先生の西田本がオススメです。福岡伸一さんの本もオススメです。
西田のことになると筆が止まらなくなってしまうので、一旦話を戻します。(始まってすらなかった)

卒論のテーマとして西田大先生とコンニチハした私だけど、彼の哲学は、私の人生(というか物事や世界を理解する認識方法)にも大きな影響を与えてくれました。

特に、絶対矛盾的自己同一、という概念。
世界を救うと思いました。
(なんか大丈夫かな、ヤバイ奴だと思われてないかな。)

絶対矛盾的自己同一を簡易に簡易に簡易に説明すると、矛盾対立しているものが、その矛盾対立を含んだまま、同一のものとして自己統一を保っているという状態です。

これはそもそも西田哲学における実在界と現象界の連関を説明する際に登場した概念らしく、それがいろんなものの関係性の説明にも用いられていったのです。

自分の言葉や解釈が稚拙すぎて、太宰治にも負けない恥ですが、勇気を振り絞って説明してみます。

例えば環境と自己。
自己は環境によって作られていますが、その一方で環境は自己によって作られているともいえます。(地球という環境があってこそ私達は生存していますが、私達の行為によって地球温暖化や環境問題が引き起こされている、みたいなちょっと違う気がする例を挙げておきます。福岡伸一さんの本では年輪が例示されていた記憶。)
ここで、作られるものが、同時に作るものであるという矛盾が爆誕します。
だけど世界はそういう構造のものとして統一された状態にあります。
矛盾だけど、その矛盾を含みながら、同一性が保たれるわけです。

私はこの概念を知った時、弁証法や対話とはまた違う、融合や統一の思想だなって思いました。

とある矛盾や対立が生まれた時、私達はどう矛盾をなくすか、矛盾を含まない選択肢を作れるかを必死こいて考えます。

でも西田は、矛盾を矛盾として残したまま、矛盾を超越した統一概念を成立させることに成功しちゃったのです。(ちなみに解消される矛盾は矛盾じゃねえ!と西田大先生は申しております。)

世界を救うと思いました。
絶対矛盾的自己同一の概念があれば、あらゆる対立も衝突も、超越できちゃうじゃないですか。

と言うと、「そんなの理論上の話だろ!現実世界で考えた時、全然実践的じゃないじゃんか!」という批判が聞こえてきます。

確かに、西田への批判として「実践的でない」という声は多くあります。

理論と実践という二項対立も乗り越えられちゃうこととか、
西田哲学における実践概念から考える必要があるとか、
そういうことを書いていくと2022年のふりかえりnoteが卒論になってしまうので省略します。

私が世界を救うと思ったのは、理論から実践までの万能薬として、という意味ではなく、「万民の大前提としてそういう発想が頭の片隅にあれば、世界はもっと優しくなるんじゃないか?」という意味合いで、です。

矛盾を解消すべきものであるとする姿勢は、いろんなものの妨げになるし、思わぬ攻撃性を孕み得るものだと思ってます。

太陽は赤い!というAさんと、太陽は金色だ!というBさん。
もし、真実はただ1つであり、整合性を保つものであり、矛盾や対立を決して孕まないものであるとするのなら、太陽は赤であり金色である、というここで生まれた話は明らかに矛盾であり、AさんかBさん、どちらかが正しいということになります。
(AさんとBさんの意見を融合させ、新たなCという意見を生むパターンもある。これ、対話のスタイル。ちなみにトマス・アクィナスはこの方法で神学と哲学を融合させた。)
どちらかが正しいということは、どちらかが誤りであるということで、
自分の正しさを正当化するために、AさんとBさんが殴り合ったり、関係性がぶっ壊れたりすることが起こるかもしれません。

…この構造って、世界の縮図では?

矛盾が矛盾であることを許さない姿勢が、言ってしまえば戦争を生んでいるんじゃないの?って私は思っちゃったのです。

絶対矛盾的自己同一という概念を通して、西田大先生が「太陽、赤くても金色でもよくね?だってそもそも真実が1つであって矛盾しない必要なんてないんだからさ。」って言っているような気がしてならんのです。

対話は、互いの正しさを認めることを前提にしています。
絶対矛盾的自己同一は、対話のようで、対話ではなくて。

私の中で対話って、他者へ優しさをもつ、感情論みたいな印象で。
絶対矛盾的自己同一は、そういう優しさの感情はないのだけど、構造として、理論として、対話を認めているような感じがするのです。

思考法として頭の片隅に絶対矛盾的自己同一が理解されていることで、そもそもの矛盾解消に起因する衝突の発想が生まれなくなるんじゃないかって、思っているのです。

…ハイ、つまりは絶対矛盾的自己同一の概念が私の中に根付いたことで、例えば完璧でありたい理想の私と面倒くさがりな現状の私が私の中で同時生存することが可能になり、「どっちが本当のワタシ!?」なんてことに思考を割くことなく、未来に対しての思考を進められたんだぜー、みたいなことです。ハイ。

これはふりかえりと言っていいんだろうか。
ふりかえりであり、ふりかえりでないという矛盾が1つのnoteで同一性を保って存在しています。
ハイ、もうそろそろ黙ります。
ラストは~アリストテレス編~です。







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