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考えるきっかけは突然に

こんばんは。今日も原稿用紙一枚分の何かを書いていきます。


今日は三連休の一日目の土曜日。

まだまだ焦りを見せる時ではないので、ひたすら惰眠を謳歌する。

夏がすぎ、あっという間に朝晩が肌寒くなる。
太陽からのエネルギーが届いて数時間後、地表1.2mあたりが暖かくなるこの瞬間が1番気持ちいのだ。


そんなグータラな一日を送っていた今日、ゴロゴロしながら見ていたのが『カタシロ』という、TRPGの一つのシナリオである。

これを見ながらグータラなりに考えるきっかけを得たので、書き残しておきます。

⚠️⚠️⚠️ネタバレ注意⚠️⚠️⚠️
ここから先はTRPGシナリオ『カタシロ』のネタバレを含みます。
これからプレイ予定の方や、初見でプレイ動画などを視聴されたい方は、ブラウザバックを推奨します。






今回『カタシロ』を見たなかで考えるきっかけになったのは、自分のコアとなる部分が変わらなければ自分のままでいられるのかという問題だ。

このシナリオの中では寓話の『テセウスの船』を例に出し、自分の体ではどこの部分が残っていれば、自分でいられるのかという問いがある。

最近哲学関係のポッドキャストを聞いた身としては、ソクラテスよろしくその意思こそ自分であり、意思のみが自分であると言いたくなってしまう。つまり脳こそ人間の根源だと断言してもなんとなく理屈はわかる。

特に、テセウスの船のようにパーツの入れ替わりで、そのものがそのものではなくなってしまうのであれば、交換せずとも歯が入れ替わり、勝手に体を大きくなり、ダイエットや筋トレを繰り返し、置いていくこの我が身のどこに自分が存在するかと問われれば、身体そのものに自分性などないのかもしれない。ということを考えてみたりもした。

しかし、本な簡単に割り切れる問題でもなく、面構えがわったり、指紋も変えてしまえば、この手元にあるiPhoneは僕を認識してくれないし、親族でさえすぐには自分を自分だと理解はされないだろう。

きっと脳以外を全て変えた時に自分として復活するためには、それまでの経験で自分でしかわからない経験を出し、他の人にきっとそうだと納得してもらうしかないのだろう。

この意思も、残ったところで、いつか変わるものだと思うし、今は苦手なリンゴも、体が変われば好きになるかもしれない。そうすると必然的に、意思だって変わる。

いよいよ持って本当に自分の中で代替がきかないものはなんなのかわからなくなってきたので、今日はこの辺で終わります。

このnoteに残し続けた文字列がいつか大豆ダイズの意思として代えが効かないものになったらそれはそれで面白いと思う。

p.s.最後に
カタシロのお医者さんのお父さんはなぜ、息子の体を人工物にしなかったのでしょうか。

(今回見たルートだとプレイヤーの体がロボットになり、プレイヤーの元身体が息子のために使われるエンドだったため。息子ロイドルートがあれば参考URLを教えてください)