脳科学入門 I-a

Introduction

前回の記事で脳科学は非常に学際的な学問であると書きました。ざっと見渡してもマクロには脳機能科学、脳神経科学、精神医学など、ミクロには解剖学、生理学、分子生物学などがあります。そしてその間にある様々な学問を含めると、ほとんどすべての科学が、脳科学となにかしらの関連があると言えるでしょう。本章では脳科学の歴史と概観をざっくり見渡し、いわゆる脳トレと言われるものが、どのように進歩してきたのかを見てみます。

まず、脳科学全般が目的とするところは大きく分類して二つあります。まず「意識」を科学的に解明すること、そして人間の感覚、行動、記憶、学習のプロセスを解明することの二つです。

脳科学の歴史

それでは脳科学の原点と考えられるポイントまで、歴史をさかのぼってみましょう。そこからゆっくりと現代に向けて歩いてくるのは悪い旅路ではありません。お付き合いください。

神経系に関するもっとも古く、しかも近代にいたるまで支配的であった学説は2世紀、ローマ皇帝の御殿医を務めたギリシャの医師ガレノス(Γαληνός)によるものです。彼はアリストテレス以来考えられていた心は心臓に宿るという考え方を否定し、心は脳に宿ると主張し多くの実験や解剖を行いました。

ガレノスはヒポクラテスの四体液説を支持しており、神経系は脊髄から生まれれる液体を末梢に運ぶための管として認識していました。今となっては大きな誤りであることは明らかですが、ガレノスの学説は臓器や血管を単一の目的を持ったものとしてとらえたシンプルなもので、唯一神や創造主を信仰する宗教との相性が良く、のちのキリスト教やイスラム教の世界で広く周知され、常識化していきます。

このような背景もあり、それから17-18世紀にいたるまでのおよそ1500年間、神経系は純粋な科学の対象となることはありませんでした。

この信仰にも似た誤解に訂正のメスを入れたのが、かの有名なカミッロ・ゴルジ(Camillo Golgi)やサンティアゴ・ラモン・イ・カハール(Santiago Ramón y Cajal)といった神経解剖学者たちです。

ゴルジは現在でも大学や高校の生物学の実習で行われているゴルジ染色によって神経が網状の構造を持っていることを突き止めました。のちほど運動神経の項でお伝えすると思いますが、ゴルジ腱器官という筋肉に存在する感覚器や、細胞内にあるゴルジ小器官という組織も発見しています。

カハールはゴルジの神経網状説に反論し、個々の神経細胞が軸索と樹状突起という構造を持ち、それらが連結して網状になっていることを明らかにしました。カハールの研究により、神経系が細胞のネットワークによってできていることが明らかになったのです。

ゴルジとカハールの二人は神経細胞の構造を解明した業績により1906年のノーベル医学生理学賞を受賞します。


ウ・ン・チ・ク

1906年、同じ年にノーベル賞を受賞した人たちのクセがすごいので、一度伝記などを読んでみると面白いでしょう。

同年のノーベル文学賞を受賞したのはイタリアの詩人、ジョズエ・カルドゥッチ(Giosuè Alessandro Giuseppe Carducci)、妻のパンツをスーツケースに詰め込み、取り出して匂いを嗅いでは恍惚としていたという変態。彼の詩は大変抒情的、それでいて凄絶です。

平和賞にはセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt Jr.)、日露戦争の調停と和平交渉の成立までの尽力に対して賞が贈られています。ぬいぐるみ、テディ・ベアのモデルであり生涯どの一年を切り取っても、波乱に満ちた人物です。

物理学賞にはJ. J. トムソン(Sir Joseph John Thomson)、電子の発見により授与去れています。それまでこれ以上分割不能であるとされていた原子が、さらに電子となにかに分けられることを見つけました。いつでも唐突に思索にふけり、立ち止まって動かなくなる癖があり、しばしば道路の真ん中で立ち止まっては交通渋滞を引き起こしたが、日常的な光景なので周りの人は文句を言わずに放置していたというエピソードがぶっ飛んでいます。研究者はこうでなくっちゃ!

科学賞はアンリ・モアッサン(Ferdinand Frédéric Henri Moissan)、フッ素の単離、同定と当時としては超高熱を作り出せるモアッサン電気炉の発明によって受賞しています。恐ろしく反応性の高いフッ素(ガラスも金もプラチナも腐食する)を単体で保管するため、試行錯誤の末に透明なフッ化物である蛍石を用いたという逸話に涙。科学におけるホコタテです。


その後薬理学者ジョン・ラングレー(John Newport Langley)によって特定の神経細胞に作用する薬物の存在が明らかになりました。例えば交感神経がアドレナリンによって興奮し、接続されている別の神経に電気刺激を伝達することで、特定の身体反応を引き起こすことが発見されたのです。

数十年かけて細胞のネットワークにより、脳、つまり心の働きが生まれているかもしれないということが徐々に明らかになり、ようやく科学の光が、脳という器官にスポットライトを当てることになったのです。

さて、20世紀初頭までの脳科学を「心=脳と体が一体のものである」という発見の歴史とともになぞってみました。もちろんこれに反対する学説、つまり「心と体は別のものである」という学説も同時期に検証され、研究が進められていきます。

ここで一人、今後もこのシリーズに数多く登場することになる超有名な人物の名前を一人挙げておきましょう。前述のノーベル賞受賞者の名前も大事なのですが、脳を学習するうえでこの人の主張と学説は絶対に覚えておきましょう。

我思う、ゆえに我あり
Je pense, donc je suis
Cogito ergo sum

方法序説』(Discours de la méthode)

17世紀の哲学者、数学者、ルネ・デカルトその人です。


脳トレPoint‼

デカルトトレーニング

”我思う、ゆえに我あり”で有名な方法序説ですが、タイトルにもあるように内容は哲学、思索の方法論を述べています。非常に論理的で実用的であり、現代でも十分通用する方法が書かれています。何かしらかの学術研究を行ったことのある人にはおなじみの手法でしょう。特に理工系の研究者などは無意識にこの手法で思考を行う癖がついていると思います。今回は一般向けの脳トレ方法として紹介させてください。

まずは自覚的に以下に示すような思考のスイッチを入れられるようにしましょう。習熟してくると有用な思考ツールとして使いこなせるようになります。

早速実践です。

まず、疑います。すべてを疑います。あいまいなものを排除し、確かな存在、実現可能なことだけを取捨選択していきます。常識や既存のルールは捨てましょう。ただ、ひたすら疑います。そして最後の最後に残った疑いようのない事実だけを真実として受け入れます。

さらに、全ての事象を要素に分割し、それらをベースにして複雑なものを作ります。余計な装飾や虚構は一旦すべて排除しましょう。それでも論理が破綻せず成立しているか、見落としがないか再考します。

どうでしょう?これがデカルトの思考をなぞるトレーニングです。

最小の要素を無数に組み合わせれば複雑な構造を組み立るという思考が現実的に役に立つ場面と言えば、やはりディベートや論文作成などでしょうか。ただ、長期的には現実的な効果だけを追い求めず、あくまで脳のトレーニングを目的として行ってください。

デカルトは哲学の手法としてこの方法を取り上げましたが、概念自体は近代科学の礎をなすほどの影響力を持ちます。またプログラミング言語や物理学の基礎概念としても重要であり、私たちの実際の生活に大きく影響を与えています。

日々のトレーニングとしてこれを行う場合、ディベートやプログラミングの学習を行ってみるのがおススメです。特にプログラミングは完成品を動作させてみることが可能です。思った通りに動作したら、やはり「エウレカ!」と叫ぶのを忘れずに。

もう一つ、いつでもできるデカルト式のトレーニングを紹介しましょう。

少し視点を変えて見渡してみればデカルトの思想をベースに組み立てられている思想や事物が身の回りにはありふれているはずです。それを見つけ、頭の中で最小要素に分解して、もう一度完成品にまで組み立てなおしてみましょう。シンプルなものから初めて徐々に複雑なものへ、そして具体的なものから抽象的なものへ、分解しては吟味し、それぞれの要素の意味を考えながら深く深く思考の海へもぐります。深く、深く、どこまでも深くです。

この手法自体はいわゆる高次脳機能のトレーニングとなっており、例えば中級者向けの瞑想方法として紹介されることもあります。これをシリーズの初期に持ってきたのにはもちろん理由があるのですが、学習を進めてからのお楽しみということで。

どんなトレーニングもそうですが、最初は脳がクタクタにならない程度に、しかし充実感が感じられる程度の深さと量をトレーニングすると良いでしょう。脳に新しい神経回路を作ることを目的としていますので、短くても数か月のトレーニングが必要であることはご理解下さい。

さて面白い話を一つ。このトレーニングに習熟してくると脳はなぜか自発的に「複雑な仕組みの裏に隠された単純な論理」に美しさを見出し始めます。例えば物理学の方程式や数学の公理、また例えばプログラミングのソースコードや建築物の設計図に、そして時に楽器を弾けなくとも楽譜や整然と描かれた文字の並びそれ自体などに、美しさを感じる傾向が高まります。似たようなトレーニングを積んだことのある人や同じような脳の使い方をしている人は共通してこういった「感性」を身に着けているようです。

脳を鍛えることで見えてくる世界の美しさというものが世の中には隠されているのですね。

ところで今の小学校ではプログラミングやアルゴリズムを必須科目として学ぶそうですが、これらを学習したことのない世代の大人は教養として身に着けておくとよいでしょう。小中学生向けの解説書はたくさん出版されているはずなので、ぜひ手に取って読了してみてください。


さて、デカルトは要素主義に則り、脳には下等生物にもみられる食欲、近くとそれに対する反応、運動、記憶などの多くの機能が脳に由来すると考えましたが、人間にだけに見られるいわゆる心とよばれる高次の脳機能は、松果体が別の空間と通信を行うことで現出していると考えました。

まだまだ信仰が脳と心の在り方に大きな影響を与えていた時代の話です。

人間だけが持つ神性のようなものを何とか説明しようとし、時に教会や自己の宗教心との対立に葛藤しながら、多くの思索が行われた時代でした。そして19世紀半ば、人間と動物の間には精神という大きな断絶があると信じる人々に、大きなショックを与える与える著作が発表されます。

そう、ヴィクトル・ユーゴー(Victor Hugo)による「レ・ミゼラブル(あぁ無情、1863年発表)」ですね。

たしか世界を旅した主人公が、ガラパゴス島に至り、自らが過去に犯した罪にさいなまれながら、島ごとに異なる形をしたくちばしをもつ鳥の研究にいそしむ話だったような気がしたり、しなかったり…。

という冗談はさておき、ここでチャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)の登場です。

当時、人間の感情や表情は文化に依存して後天的に獲得するという考え方(経験論といいます)が主流でしたが、ダーウィンは進化論などの著作のなかで、身体的特徴以外の感情や表情も動物から連続的に進化してきたものではないかという考えを示しました。

心や魂の在り方について、神聖なものの喉元に科学がナイフを突きつけ始めます。

19世紀半ば、ダーウィンが進化論を発表する傍らでは、メンデル(Gregor Johann Mendel)が遺伝の法則を明らかにしたり、変人エジソン(Thomas Alva Edison)と奇人テスラ(Никола Тесла)が発明を競ったりと、生物学や科学が大きく進歩しました。国家規模の交通や通信が整備され始め、人類は南極や北極にまで到達します。世界が一気ににぎやかになった時代です。

心は人間にだけ宿る特別な機能なのでしょうか?それともあくまで神経細胞のネットワークが生み出す幻想なのでしょうか?現在は脳の神経細胞を模したAIの進歩に伴い、十数年前には考えられなかった様々な知見が得られています。しかし尚、この時代の人々が直面した心と体の問題は、現在も同じように議論が続けられています。果たして心は脳に宿るのでしょうか、あなたはどちらの考えを支持しますか?

脳科学入門I-bに続きます。


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