不快と多様性
人間は自分とは違う存在を不快に感じやすい性質を持っています。引いてみれば人類にはこれといった違いがないほぼ同じ存在ですが、私たちは小さなところに違いを見つけ相手と自分を分けて見る癖があります。アジア人同士の中で違いを見つけ、日本人同士の中で違いを見つけ、同じクラスの中で違いを見つけます。それは違うということと自分は何者であるかというアイデンティティが裏表だからです。あちらとこちらの違いを見つけずして私は何者であるかの説明ができないからです。
そして似たもの同士で集まって過ごす時私たちは心地よいと感じます。どんなリベラルな都市であっても、グループには人種/国籍/性別/収入/政党の偏りがあります。ですから不快の排除は同時に多様性の排除でもあります。
昨今不快な表現を廃止しようとする流れがありますがそれは本当に可能なのでしょうか。またそのような社会は望ましいのでしょうか。不快と感じる感性が人類皆同じとするならばそれは可能かもしれませんが、それはそっくりそのまま多様性の否定につながります。仮に実現した時には、その時の多数派の中で合意が取れた不快の基準を少数派に従わせるということになるかと思います。国家が正しさや不快の基準を決めそれを国民に従わせることを私たちは全体主義と呼び、我が国も一度(実際には独裁と思われた国家はポピュリズムであったことが示唆されてますが)そのような社会を経験しました。
不快は社会的な感覚です。だからこそラーメンを啜る音を不快に感じる文化圏もあれば全くない文化圏もあります。この両者が折り合って住む際に、どちらの不快をより普遍的な不快と定義するのでしょうか。ラーメンを啜る文化の人たちと、啜らない文化の人たちがわかれて住むのでしょうか。または多数派の不快に少数派を従わせるのでしょうか。
不快を排除する考えの根底にあるのは「私が感じていることと他の人が感じていることは同じである」という前提があります。そして、これを強固に叫ぶ人の中には無意識のうちに何が不快を定義するのは私の側であるという前提があります。つまり「私が感じる不快を不快に感じない向こうの方が間違えている」ということです。
私は学校で排除の授業をやるといいと思っています。背が低いより高い方がいいことにして、背が低い人を冷遇する。次は性別。次は血液型。多様性を大事にという授業より、感性を否定され排除されるとはどういう経験かを学んだ方が人は不快に寛容になり、結果多様性が保たれるのではないかと思っています。
もちろん全てにおいて寛容にならなければならないというわけではありません。ただ、何かを排除禁止するからには不快という理由は不適切だということです。なぜなら先ほど申し上げた通り社会的な感情で、かつ多様性がある社会においては人によって感じ方が違うからです。排除禁止する際にはそれなりのロジックが必要だと思います。
いじめの背景にあるのは「違うものを排除したい」という子供の素朴な欲求です。そして違うものを排除している時、排除している側には高揚感があります。恐ろしいことですがあの人が嫌いという理由で私たちは同じ側の存在であるという一体感を覚えてしまうのです。私たちには不快と感じる存在の排除に快感を感じる暴力性があることをよくよく理解しておくべきだと思います。