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未来の公教育はどうなっているべきか

「学校とは何か、公教育とは何か」を追求していくと国家の存続(発展)のために必要な人材を育てるということが究極の目的ではないかと思います。国家という言葉に反応する方もいらっしゃるかもしれないので、日本という集団の維持でもいいと思います。なぜ集団の維持が重要なのかというと、歴史を紐解けばある程度の規模のグループでいることが生存戦略上重要だった例は幾つでも出てきます。つまり個体である私を生存させるために集団の維持が必要だったということです。一方でその集団によって個人が犠牲にされた例が出てもくるのですが。

では、国家とは何かというと日本は民主主義システムを採用していますからこのシステムの維持だと思います。民主主義とは「個人としてみんな自由に生きようね。でも、その多様な個人が集まればいろんな問題が起きるからルールを決めてそれを守ろうね。なかなか合意できない時は平和的な対話でなんとか解決しようね」ということだと思います。民主主義は個人が幸福でいなければ崩壊しやすい仕組みでもあるので、教育上大事なことは、

①個人が自由に自分らしく幸せになること
②個人が主体的に責任を持って生きること
③社会を信頼し社会に貢献したいと思うこと
④多様な人たちと対話し合意形成を行うこと

ではないかと思います。これが民主主義を機能させる上で大事な教育観だと私個人は考えています。

テクノロジーの発展はとても大きな影響を与えています。知識を得るということで言えば、オンラインの方が効率的だと思います。個別最適化に優れ、何に引っかかったかも全てデータで管理できるので、子供の学習進行具合も理解できます。全てがオンラインになった世界を想像すると、学校教育と社会教育の境目は無くなることに気が付きます。この年齢までに知っておいてほしい知識というのはある程度目安をつけることはできますが、それ以上知りたい子供の知識欲を抑える必要もありません。通学も週に二回ぐらいでよいのかもしれません。また、わからないまま卒業してしまった人の学び直しもいつだってできます。オンラインに先生がいつでもいるのですから。生涯にわたって必要な時に必要なことを学ぶ世界がきます。すでに英語の学び直しにオンラインの子供の教材はよく使われています。

一方で誰もが意欲的なわけではありません。子供によっては様々な背景があり、その子の責任ではなくてもやる気が出ない子供がたくさんいます。得意不得意も、能力の差もあります。私が見学に行った高校では掛け算がわからない子供がたくさんいました。独学でいきたい人にはオンラインでいくらでもいってもらって、つまづく子供を早めに察知し手厚くサポートすることにむしろ力を傾けるべきだと思います。

そうなると公教育の役割は将来的に、
①生徒が自ら学ぶところを後ろから眺め、教えるのではなくつまづきを察してサポートする
②民主主義システムの参加運営方法を学ばせる
③虐待やいじめなど子供の異変を察知する(対処は専門機関)アンテナとして機能する
に集約されるのではないかと推測します。

民主主義を機能させるため必要なことは、自分のことを自分で決め責任を取るリーダーシップと、合意形成に集約されるかと思います。リーダーシップとは「自分で考え自分で決める」ということです。また「問題があるけれど解決されていない。誰もやらない。だったら私がやらないと」と自然と考えることです。なぜ民主主義にリーダーシップが必要かというと、リーダーシップは自分は問題を解決できる、社会を良くできるという自信と密接に関係しています。リーダーシップなき社会は、文句を言う人はいても解決に向かう人がいない社会になり民主主義が機能しません。

次に合意形成です。多様な社会とは、違う価値観を持った人が集まると言うことでどんどん合意形成が難しくなります。ですからみんなで合意形成の仕方を学ぶ必要があります。また同じ船に乗っているという感覚を皆が共有し、絶望させず助け合うということが大事だと思います。個人が社会に絶望した時、テクノロジーが進めば進むほど報復の手段は増えます。オンラインの個別学習だけにすると厳しい状況に置かれている他者との交流が減り想像することが難しくなりがちですから、学校にいる時はうまくいっていない人をどうやって助けるのか、違う他人とどうやって折り合っていくかを重視するべきだと思います。それが個人の知識の習得の遅れにつながったとしても、最終的にその子のためにもなるし社会にとっても重要なことだと思います。知識は後でいくらでもカバーできます。

テクノロジーにより公教育はより本質的なところに向かえるようになったと思います。おそらく未来の学校は校舎も要らず、校庭も要らず、人しか必要ないと私は考えています。今後先生はファシリテーター役に変わると言われますが、仕事でインタビューを受ける側とする側、ファシリテートする側をやったことがありますが、スキルは全く違います。主張と傾聴と合意形成の場を機能させることは全く違うということです。子供たちが民主主義の運営方法を学ぶという点で今よりももっと教員の影響は大きくなっていると思います。

少し突飛すぎたかもしれませんが、誰もが一旦現状から外れて本質論から考えた未来の教育のありようを描きそこから現在の問題点を考える必要があると思います。

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