いると思った巨悪がいなかった場合に
昔はどこかに全体に影響を及ぼして利益を貪っている奴らがいると考えていました。映画でも漫画でも大体悪の親玉がいるものです。
ところが大人になって人間関係が広がり、様々な立場の人の話を聞いているうちに、最初に思っていたこととは違う印象を抱くようになりました。どこまで奥に入っていってもそんな親玉が出てきません。むしろ親玉だと思っていた人も、だいたい弱みをもっていました。全ての力は誰かに委任されているから当然と言えば当然です。独裁者ですら、民衆と軍部が反対すれば地位を保てません。
さらに社会はあまりにも複雑です。昔よりも情報はオープンになっていて、相互に監視されています。しかも我が国は成長しているフェーズではなく、維持または衰退のフェーズです。余った利益を分配するというよりは、誰に痛みを負担させるかが議論されています。昔から日本の会社での犯罪は、私腹を肥やすものよりは、会社のために仕方なく行っているものが多いのが特徴だと言われています。
社会問題の解決に取り組んでいる様子を見ると、映画のヒーローのように強大な敵に立ち向かっているというよりは、複雑に絡まった糸を解きほぐすように、関係者の感情と、これまでの歴史と、利害を調整していく作業に近かいです。昔から続く風習や思い込み、関係のこじれ、インセンティブ設計が時代とずれてしまったことが問題だったこともありました。だからこそややこしい。これだったらまだどこかに巨悪がいた方がわかりやすいと思うぐらいに複雑で、解決方法も明快ではありませんでした。
悪意を持つ巨悪がいるならその人の排除で問題は解決します。しかし、もし構造が問題を引き起こしているなら構造を変えない限りは同じことが起きます。構造が問題だと理解するには知識も複眼的な視点がいります。複眼的な視点を手に入れるには違う立場、違う考えの人との対話が重要です。そして、何より自分の思い込みをなるべく排除しなければなりません。
気を抜いて生きているとどうしても自分と似た考えの人間が周囲に集まりやすくなっています。その方が気が楽だし落ち着くからです。ほっておけば違う立場の人との交流が少なくなり、考えはより強化されていきます。ネットは世界に開かれているじゃないかと一時期は考えられましたが、ネットによって偏りと閉鎖性が強まることも知られています。
見たことがなく触れたことがない時、人の妄想は加速しやすくなります。きっとこんなことが、こんなことまでと物語が強化されます。触れれば拍子抜けすることも多いのですが、実際に見たり触れたりできる人は限られています。では、どうすれば断片的な情報から頭の中に出来上がった物語を現実とすり合わせる機会をもてるのでしょうか。
社会を悪くしている巨悪がいると思って、蓋を開けてみると、そこには複雑な構造に翻弄され疲れた一人の人間がポツンと座っていることは少なくありません。ピントを絞ればそこには個人の善悪がありますが、大きな視点で見れば誰もがシステムの一構造にすぎません。