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努力という技術の獲得方法

長文ファンの皆様おはようございます。

努力の議論は「あるかないか」で乱暴になりがちですが、努力には技術があり、獲得することも可能だと考えています。

努力はある領域においての労力(行動)の投下と考えられます。しかし、同じ労力を投下する場合でも、主観的に喜びを感じる場合があります。それが夢中です。そもそも何かに夢中になれるなら努力論は必要ありません。

努力とは「主観的に不快感情を伴う一定の労力投下」ではないでしょうか。これをいかにして可能にするかが「努力の技術」です。

この技術を支える二大要素は「到達時の想像力」と「雑念の排除」です。

山登りで一番辛いのは山頂までどのくらいの距離があるかわからない時で、山頂が見えた途端疲れを感じなくなるのはよくあることです。人間は今投下している労力が報われるかどうかによって全く見え方が異なる生き物です。

過去の経験からやれば報われると感じたことがある人は努力を継続しやすくなります。成功体験が大事と言われる所以です。

どんな小さいことでも良いので、努力し、達成できた。この記憶の積み重ねで、ただの暗闇の中で闇雲に頑張るか、自分で到達時点を想像しながら頑張るかの違いが出てきます。

いったんこれを回せるようになると、実は学習には当たり外れがないことに気が付きます。

「努力の成果は約束されていないが、学習は約束されている」わけです。ここまでくるとかなり努力が自動走行し始めます。

何かに集中するのは、注意を一点に向け続けることで、雑念を排除し続けているとも言えます。雑念の排除は、それが浮かばないようにすることではなく、浮かんだ雑念に引きずられないようにし続けることで実現します。

典型的な雑念に「しんどい」「飽きた」があります。これらは一度誕生したら常に抗わなければならないものではなく、一過性のものです。ここが凌ぎどころというタイミングがありそこをうまく切り抜けると努力は継続されます。

さらにこれらを繰り返すと、集中にはレベルがあることに気が付きます。本当に深い集中では、一切の情報が遮断され対象と自分だけの世界が訪れます。これがフローと呼ばれる世界で、この状態で触れた情報は、驚くほどの豊かさを持って獲得することができます。

努力の投下先を選定することも大事ですが、こちらは一定の知性が必要だと考えます。ただ、目の前の大事だと思われるものに努力を投下し続けるだけでも、それなりの成果は見込めると思います。

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