人間グラデーション
初めて選んだポケモンのタイトルはブラック。
甘党と辛党かなら甘党、きのこかタケノコか、ならきのこ。
そういう選択問題は、世の中にありふれている。
特に意味はない、けれど、答えが同じなら仲間意識が生まれるし、違ってもなんやかんや言い合える楽しさがある。
選択肢のある問題は、答えが明白で話題にしやすい。
最近、そういう小さな選択によって、「自分」が形成されるのかな、なんて考えた。
もっと言えば、こういった問題は、己のアイデンティティ、みたいなデカい概念すら形成しているのではないだろうか。
他者に対しての劣等感の原因は、自身のアイデンティティの不安定さだと思う。
「自分とは何者か」を確立できないから自信が無い。
自分を理解しようとしたとき、一番手っ取り早いのが自分を分類して、定義することだ。
何かに属している、と言うことは他者からも測りやすい指標になる。
そうやって、せめてもの自分のアイデンティティを持とうとしている。
結局、自分で自分が測れないからといって、他者からの評価に依存するから、分類したジャンルの中で順位付けして苦しくなるのだ。
別に比較することが悪いわけじゃないと思う。
本質的に人間は、二つ並んだものを比較する性質があって、大きい、小さい、赤と青とか、高い、安いとか、人間同士でも生死とか、男女、文化、好み、その他なんでも比較対象がふたつあれば、少しは違う部分があるはずで、そうなると、それぞれの特徴を比べてしまうのは仕方の無いことだと思う。
それ自体が悪いのではなく、その二つの選択肢が、沢山あるうちのひとつであることを忘れてはいけない、と思うのだ。
例えば、赤と青の間にも色は無限にあるように、二人の間にある差もグラデーションなわけで、背の高さ、学力、話す言葉、その他なんでも、私たちはそのジャンルにおいての選択肢、比較対象は二つだけじゃない、ということを忘れがちだ。
あくまで私たちは、いつだってグラデーションの一部に過ぎないのに。