会長 1
退職届を提出して数日後、僕は会長に呼び出され、青山の本社に行った。
この会社は、十年以上前に、会長の地元の名古屋から始まった。地元でエステ、ネイルサロンをオープンし、その後、事業を拡大し、全国展開をしている。
当時、英会話スクールのNovaをはじめ、回数チケットをまとめて前売りするビジネスが流行っていた。50回や60回分のチケットは数十万円にもなり、小規模でも大きな売り上げを上げる事ができた。当時、この業態のビジネスは、この手法によりバンバン伸びていった。ちなみに、今はコンプラの問題などで、この手法は禁止されている。今こうして考えると、確かにグレーな手法だ。
本社の会議室に案内されると、しばらくして会長がやってきた。
この会社に入って1年が経つが、会長とサシで話すのは初めてだ。会長は当時50代後半、小柄でいつも口元に笑みを浮かべている温厚な人だ。いかにも気の良いおじさんという感じ。
会長には、叩き上げの様な威圧感は一切ない。僕はそういう偉そうな奴が大っ嫌いなので、はじめてしゃぶしゃぶ店で会って以来、会長には好感を持っていた。僕にとって、会長との対話は、大きな転機となった。ここで得た事は、現在の自分の考えにも大きく通じていると思う。
今回呼び出されたのは、僕が退職届を提出したことが発端だ。
僕は池袋にいる時、一度退職を考えていたが、今の会社への買収が決まり、会社に残ることを決めた。買収から1年程経過したけど、結局、自分がやっている事、やれる事は池袋の頃と変わりはない。自分の上には、変わらず上司がいて、組織の士気を下げ、周囲には停滞感が満えいしている。
そんな組織の現状と退職理由を会長に伝えた。
会長は時折質問をしながら、状況を把握するように話を聞いてくれた。
そして、僕の話が終わると、会長はこの1年、僕らの事業部を見て気付いた事、感じた事、問題点について話をしてくれた。
会長にとって、この事業部の情報は、上司からの報告がすべてだ。しかし、その情報はとても主観的で、「これはこういうものです」と、客観性がまるでない。これまで事業計画の提出はなく、今後の事業展開や成長戦略も一切ない。会長は辛抱強く様子を見たが、上司にはもはや期待できないと結論付けたようだ。そこで、何とかして、現場で働く僕の意見を聞きたいと、その機をうかがっていたらしい。上司を介さずに、会長と僕が話をするには特別な理由が必要だ。それで、この退職のタイミングになってしまったという。
こんな話をずっとしたかった!
会長からは日々どんな仕事をしているのか、それぞれの役割、問題点、成長戦略など、多くの質問が来た。僕はすべての質問に対して、会長が求める答えを返せたと思う。僕にとっては、何ら珍しくもない、普段の話だけれど、会長には身を乗り出すほどの新発見だったみたいだ。それだけ、上司からの報告はザルだった。
この時点で、話し合いは、1時間以上経過していたと思う。僕は退職をすることも忘れ、話に夢中になっていた。
僕はこの会話が楽しくて仕方なかった。事業プランがあっても、これまで上司には取り合ってもらえず、悶々とした日々を過ごしていた。それが今、会長は僕の話をしっかり聞いて、同じ方向を向いてくれている。今後に向けた意見交換ができている。
こういう話し合いをずっとしたかった。こんな充足感は、この会社に入って初めてだ。自分の思いを受け取り、その考えを共有してくれる。これは本当にありがたいし、幸せな事だなあと思う。
そして、話は僕の進退に移った。