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【書評】 戦時下とコロナ禍を重ね合わせたラブストーリー──古市憲寿『ヒノマル』

「普通」の価値が地に落ちた時代だからこそ、「普通」の特別さが際立つ。

 恋愛はコスパが悪く面倒臭いものだから、他の人間関係に代替すればいい。そもそも恋愛感情を持つことや傾けること自体、他者を傷付ける行為ではないか? 数え上げればきりがないほどネガティブな情報が世間に流布し、恋愛の価値はとことん地に落ちた。そこへ、コロナ禍が重なった。セックスするならマスクをして顔と顔が向き合わない体位を避けろ、キスするなんてもってのほかだと、専門家たちは声高にアナウンスする。恋愛は、リスクを伴う行為であることが知らしめられた。

 そんな時代に、古市憲寿はラブストーリーを書く。二度にわたる芥川賞ノミネートは古市の小説に「(純)文学」のイメージを与えたが、彼が紡ぐ物語の根幹には、恋愛がある。第五作も、タイトルはヒノ「マル」だが、恋愛における三角関係が軸となっている。

 誰も見たことがない、あり得ない完全な円を描く赤い太陽──日の丸は、「この国の嘘」と「この国の理想」を象徴していると告げる、謎めいた話者の語りで小説は幕を開ける。続く本編第一章ではガラッとムードが変わり、太平洋戦争開戦から一年半が経った昭和一八年の夏へ。中学三年生の新城勇二は、愛国を説く教師に向かって「お言葉ですが、愛国心だけは誰にも負けないつもりです。御国のために命を捧げる準備ならいつでもできています」と反論する、生粋の愛国少年だ。医師の父と専業主婦の母と三人で、東京から神奈川の観音山へと疎開してきたことに忸怩たる思いを抱いているほどだ(<せっかく天皇陛下がお住まいになる宮城の目と鼻の先にある麹町に住めていたのだ>)。終業式だったこの日、同級生の小針啓介に誘われ、魔女が住んでいると噂される洞窟に足を運ぶ。そこにいたのは、洞窟を私設図書館として使用する一学年上の美少女、一ノ瀬涼子だった。「こんな美しい魔女がいると思う?」。ボーイ・ミーツ・ガールのスイッチが入った瞬間だ。

 帰宅すると、東京の大学で文学を専攻している兄・優一が、夏季休暇で里帰りしていた。「自由の判断を個人に任せていたら危険です。だから非常時には国家の指示に従うのがいいに決まっています」。尊敬する兄との愛国を巡る会話は楽しいものになるはずが、兄は「果たして国家は間違わないのかな」と語る。そこで生じたかすかなぐらつきは、涼子との再会によって増幅する。歴史学者の父と瀟洒な洋館に暮らす「本当に生意気な女」は、勇二に向かって「次から次に聞き捨てならないこと」を言い放つ。「他人の考えに寛容であることの重要性はわかってる。でもその結果が、この社会の有様よ。負けるとわかっている戦争に反対の声さえも上げられない」。そんな彼女は、兄の恋人だった。

 本作における三角関係は、恋愛のみを意味しない。愛国主義者の勇二と現実主義者の涼子、現実主義者でありながらも弟を擁護する立場にある優一。刻々と変化する戦況のなかで、天皇、国家、幸福、自由、大義……大文字の言葉の定義を巡る、三者間論戦が巻き起こっていく。その戦いは、遠くない未来で訪れる敗戦の事実からも明らかなように、勇二が負ける。著者最長の全五〇〇ページを数える本作は、「負け戦」の記録でもある。

 年齢設定が絶妙だ。勇二は学徒出陣には駆り出されない年齢であると同時に、中学三年生というそれなりに学を積んだ──「洗脳」が済んだ状態にあり、なおかつ思春期の真っ只中にいる。兄が勇二に告げた「いや、そう簡単に人間の考えは変わらないよ」という言葉は重要だ。勇二はお仕着せの愛国プロパガンダを滔々と捲し立てるガチガチ頭の持ち主ではあるのだが、そこには少年期ゆえの可塑性が存在している。勇二が借り物の言葉ではなく自分の言葉で、自分の頭で考えるようになるまでに、五〇〇ページ「も」かかったのではない。三角関係がもたらす議論の構図も含め、この設定だったからこそ、五〇〇ページ「で」済んだのだ。

 著者は社会学者として、各国の戦争博物館を取材した『誰も戦争を教えられない』や、専門家からも評価が高い『絶対に挫折しない日本史』なども執筆している。調べはある程度済んでいたのだろう。どこか牧歌的で、こう言ってよければ「青春を謳歌」している主人公たちの日々のディテールは、当時の史料や当事者の証言を感じさせるものであり、文章の解像度が高い。体験を元に書くのではなく、情報を元に書く、というデビュー作以来一貫している著者の姿勢が、大戦下の日本を描写するうえで遺憾なく発揮されていると言える。「不要不急」「不自由」「非国民」といったワードに象徴される、戦時下とコロナ禍の共鳴性は、今書かれるべき小説であることを証明している。そしてその共鳴性にこそ、ラブストーリーの可能性が宿る。

 振り返ってみれば著者は、第一作『平成くん、さようなら』では片割れがアセクシャルのカップルを書き、第二作『百の夜は跳ねて』では恋愛の構図から撤退したものの、第三作『奈落』では全身不随で意識のみある女性と彼氏の地獄のようなキスシーンを出現させ、前作『アスク・ミー・ホワイ』では男性同士の恋愛とセックスを描いた。「普通」の「男女」のラブストーリーは、『ヒノマル』が初めてだったのだ。それはなぜか? 兄が、勇二にこう言い聞かす場面に注目したい。<「いいか、俺と涼子さんが話していたことは絶対に誰にもいうんじゃないぞ」「確かにこの非常時に男女が密会しているなんて大問題です」>。終戦直前、米軍機によってばら撒かれたビラには、「自由に戀愛」できるようになるという文言が記されていた。先の大戦下は、端的に言えば「恋愛禁止」の時代だったのだ。

 恋愛とはリスクであり、求めるべからざるものである。そうとされる時代だからこそ、ロマンが生まれる。恋愛の価値はとことん地に落ちた。でも、それでも、価値はある。

 だから最後に、本作がどれくらいロマンチックだったかを指摘して原稿を終えよう。ラストシーンはまるで、映画『ゴースト/ニューヨークの幻』みたいだった。

※「文學界」2022年5月号掲載。

※古市作品とラブストーリー(キス)の関係については、『ヒノマル』刊行直後に本人に直撃し、週刊SPA!で記事にしました。よろしければ。
https://nikkan-spa.jp/1821362

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