プロとして守る一線と、一杯だけの赤ワインと。浦和レッズ・阿部勇樹選手
2021年11月14日。
浦和レッズ・阿部勇樹選手が今季限りでの引退を表明した。
記者になってはじめて取材した相手。
はじめて書いた「担当チームの優勝原稿」では主役として描かせてもらった。
縁は続いた。オシムジャパン。浦和レッズ。
スポーツ新聞を離れたあとも、遠いサラエボまで同行させてくれた。
それだけではない。
プロアスリートに対して払うべき敬意。共有するべき緊張感。守るべき一線。そんなことを、彼は教えてくれた。
そんな自分にとって特別な存在、阿部勇樹選手との思い出を、この機につづらせていただきたい。
※この記事は2020年6月に公開した記事を、冒頭のここまでの部分を中心に再構成しています。
2016年2月。
スポーツ紙の記者だった僕は、鹿児島・指宿で春季キャンプを行う浦和レッズを訪ねた。
指宿いわさきホテルの広大な敷地を歩き、サッカー場へ。
ちょうど選手たちが、練習開始に備えてピッチ横でスパイクに履き替えていた。
「あれ?塩さんじゃん?よく来たね!」
何人かの選手が集まってきて、声をかけてくれた。
「いやー、遠かったですよ。宮崎から車で回ってきたから、3時間」
「マジか!おつかれさまです!」
現地で取材する記者が非常に少なかったこともある。
遠路訪れたことへのねぎらいか、とにかくみんなが歓迎してくれた。
だが、ひとりの選手だけが、まったく違う態度をとった。
「あのさ、それくらいにしとこうよ」
低く、あえて抑えた口調。かえってあたりに重く響いた。
選手たちは押し黙った。そして次の言葉は、僕に向けられた。
「もう練習始まるんで、選手から離れてください。お願いします」
踵を返して、ピッチに向かう背中。
浦和レッズのキャプテン、阿部勇樹選手だった。
阿部勇樹選手と僕の付き合い。
それは親しげに声をかけてくれた他のレッズの選手たちよりも、はるかに長かった。
2004年10月。
新卒入社以来カメラマンをしていた僕は、部署異動で「記者」になった。
担当を任されたのは、サッカーJ1のジェフユナイテッド市原・千葉。
その取材現場で、最初に名刺を切ってあいさつした相手が、阿部勇樹選手だった。
彼はその年のアテネ五輪では、23歳以下日本代表の主力として活躍。
近い将来のフル代表入りも期待されていた。
かたや僕は、取材経験がほとんどない記者。
どう踏み込めばいいかわからないまま、1年ほどでジェフ千葉担当を離れることになった。
2006年5月。
阿部勇樹選手は、ドイツW杯に出場する日本代表メンバーから漏れた。
当時の僕はすでに、横浜F・マリノスの担当になっていた。
だが、意外な人物が「こういう時はいまの担当とは関係なく、取材をしておくものだ」と僕の背中を押した。
巨人の阿部慎之助選手だった。
カメラマン時代によく取材をさせてもらっていて、その後もたまに連絡を取り合っていた。
阿部勇樹選手とは以前、スポーツ紙の企画で対談をしたことがあったという。
「どうせなら、これ持っていけよ」と言って、励ましのメッセージを書き込んだバットを持たせてくれた。
久々に訪れたジェフの練習場。
取材エリアでは、多くの報道陣がW杯出場メンバーにサプライズ選出された巻誠一郎選手を待ち受けていた。スポーツ記者だけでなく、ワイドショーの取材スタッフまでいた。
そんな中、僕は阿部勇樹選手を呼び止めた。
「えっ?僕ですか?」と彼は怪訝そうにしていた。だが「贈り物」を渡すと表情が一変した。
そのバットには、阿部慎之助選手がWBC日本代表からの落選をバネに、奮起した旨が書かれていた。
言葉には重みがあった。しばらく考え込んでいた阿部勇樹選手だが、ポツリとつぶやいた。
「今の代表の選手たちはすごいです。でも、まったくかなわないと思っているわけじゃないですから」
いつも控え目な彼が、決意も込めて語った一言。
完全な他力本願ながら、僕が彼から初めて聞き出せた「本音」だった。
ドイツW杯後。
日本代表の監督に、ジェフで監督を務めていたイビチャ・オシムさんが就任することになった。
阿部勇樹選手はオシムジャパンに招集され、中心選手となった。
忘れられない出来事がある。
2006年8月12日、J1第17節のジェフ千葉対アルビレックス新潟戦。敵地で2-1と勝ったジェフは、そのまま新潟市内に「後泊」した。
選手たちの大半は、翌日に千葉に戻るスケジュールだった。
だがその中でも阿部選手ら日本代表組だけは、16日に同じ新潟で行われる日本対イエメン戦に出場するために、そのまま現地に残ることになっていた。
日本代表の集合時間は、翌14日夕刻とされていた。
すでに新潟にいるジェフの代表組は、結果として半日以上のオフを得た形になった。
だから「もしかしたら」という予感はあった。
原稿を書き終え、夕飯を食べようと繁華街の店に入ると、ジェフの選手たちが新潟の地魚に舌鼓を打っていた。
阿部選手もいた。若手が多いチーム。夕飯の面倒を見るため、多くの後輩たちを引き連れていた。
場を盛り上げようとしている彼と、目が合った。「まあ、たまには、ね」と照れたように笑う。
僕のポケットには、なぜかレッドカードのレプリカが入っていた。
それを彼に向かってかざしてみる。「なんでそんなん持ってんのよ!」とウケてくれたので「プレゼントするよ」と手渡した。
彼は「これ、いいね!」と言いながら、選手たちの輪に戻っていった。
僕は会計を済ませて、店の出口に向かった。振り返ると、阿部選手は後輩の選手たちに、レッドカードを突きつけて笑っていた。
翌日。日本代表の集合場所であるホテルのロビーには、取材エリアが設けられていた。
我々報道陣はそこに陣取って、チームに合流する選手を待ち受けていた。
ほどなく、阿部選手がやってきた。
昨日の今日だ。「どう?楽しめた?」くらいは声をかけよう。そう思った。
選手との親しさをアピールして、周囲から一目置かれたいー。
駆け出しの僕は、承認欲求の赴くままに、記者の列から一歩前に出た。「おつかれさま!」とことさら馴れ馴れしく、あいさつをした。
阿部選手は一切、目を合わせてくれなかった。
あきらかに僕に気づいていた。
だが、真っすぐ前を見据えたまま、チェックインカウンターへと歩いていった。
僕は静かに引き下がった。
顔は青ざめていたかもしれない。
その日の夜。
オシムさん率いるチームはさっそく、新潟市内の陸上競技場で練習を開始した。
練習終了後には、ピッチ横で囲み取材も許可された。
だが「無視」されたショックが残る僕は、阿部選手を呼び止めることができなかった。
仕方なく、他の選手を取材する。
その合間に、ふと気づいた。取材を終えた選手たちが乗り込んだバスの窓から、阿部選手がこっちを見ていた。
目が合うと、小さく頭を下げてくる。
そして、昨夜のレッドカードを、目立たないように一瞬だけ掲げてみせてきた。
バスが動き出した。リアクションもとれないまま、茫然と見送った。
他の記者たちが、一斉に報道控室へと引き揚げていく。だが僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
ひとつの答えが浮かんできた。
阿部選手は単に「一線」を引きたかったのではないか。
思えば、僕などの言動でいちいち怒るような阿部選手ではない。
おそらく、これから始まる合宿に向けて、前夜から気持ちをきっちりと切り替えていただけだ。代表のスタッフや多くの報道陣が見つめる場だけに、より気を張ってもいただろう。
彼はどこまでもプロらしく振舞っていた。
そこを見誤って、勝手にパニックに陥ったことを、とても恥ずかしく感じた。自意識過剰にもほどがある。
「まったくかなわないと思っているわけではない」
そう聞かせてくれた通り、阿部選手は日本代表の主軸になるための戦いを始めていた。
そこは「一線」の向こう側、プロの世界だ。
アマチュアの意識で踏み込んでいい場所ではない。
本音を聞くために。素顔を描くために。
スポーツ記者は取材対象である選手と「距離」を詰める必要がある。
嫌われたらどうしよう…などと相手の顔色をうかがっていると、いつまでたっても距離が詰められなかったりもする。思い切って踏み込むことも、時には必要だ。
ただ、それはあくまで、選手の魅力を伝えるためのひとつの手段にすぎない。
本音も、素顔も、あくまで「競技者としての価値」を際立たせる上での要素のひとつであるように思う。
アスリートは自らの価値を高めようと、プロとして真剣にふるまっている。
そんな相手に、その空気を壊すような関わり方をするのは違う。
真剣さ。プロらしさ。
それらこそが、多くの対象の中からその選手を選んで取材する何よりの必然性だからだ。
なのに、である。
承認欲求も入りまじった馴れ馴れしさで、選手を「真剣さ」「プロらしさ」のステージから引きずり下ろしてしまうなど、本末転倒もいいところだ。
スポーツの価値を守るため。アスリートの価値を守るため。
伝え手として守るべき「一線」を、僕は阿部選手から教わった。
指宿での浦和レッズの春季キャンプ。
「あのさ、それくらいにしておこうよ」
阿部選手の厳しい言葉で、トレーニングは始まった。
明るい雰囲気ながらも、強い緊張感があった。とくに、球際の攻防の激しさなどは、本番さながらだった。
リーグ優勝をノルマに近い形で狙える。早くもそう確信させられた。
そして、そんなチームのあり方こそが、広く伝えるべき特別な価値だとも感じた。「一線」を引く大事さを、僕は再確認した。
やがて、練習が終わった。
僕は取材は後回しにして、阿部選手のところに詫びを入れにいった。
「いや、むしろ申し訳なかったです。巻き込んで」
逆に頭を下げられた。
「誰かが手綱を引いとかないといけなくて。みんなの明るさは絶対にうちの強みなんで、守りたいんですよね」
「明るさ」が理由で練習の質が下がっている。そんな批判が寄せられれば、根本的に雰囲気をあらためなければならなくなる。
明るい雰囲気を守るためには、自分たちで「一線」を引くしかない。
そのために、キャプテンの阿部選手は嫌われ役を買って出ていた。
誰よりもチームの雰囲気がいいと思っているからこそ、あえて苦言を呈したのだ。
その年の暮れ。
阿部選手は恩師であるオシムさんを訪ねる旅に出た。
僕もサラエボに同行させてもらった。
対談の様子は記事にもした。
対談が終わると、阿部選手はオシムさんからお気に入りのレストランへと誘われた。
そして初めて、恩師と酒を酌み交わした。
遠い日本から来た愛弟子とのかけがえのない時間。
オシムさんは、とても気持ちよさそうにお酒を飲んでいた。
厳しくたしなめるアシマ夫人の目を盗んでは、空になった自分のグラスに白ワインを注ぎ足す。
こぼれそうなほどになみなみと、まるでスポーツドリンクのような注ぎ方。僕は笑いをこらえきれなかった。
阿部選手も楽しそうだった。だが、酔ってはいなかった。
それなりのペースで飲んではいたが、それ以上に気を張り続けているようにもみえた。
◇ ◇ ◇
翌日。阿部選手と僕は帰国の途についた。
乗り継ぎのカタール・ドーハ空港。阿部選手はワインバーのカウンターに、ひとりで座っていた。
かたわらには、手をつけられていない赤ワインのグラス。
僕は少しだけ迷ったが、隣に座った。「どうだった?オシムさんと飲んで」と聞いてみる。
「そうねぇ…」。しばらく考え込んだ末に、彼は口を開いた。
「楽しかったけど、酔えはしなかったかな。オレとしては思い出話をするだけじゃなく、教えを乞いに行っているところがあったから。指導者になりたいと思っている同世代を代表して、機会をもらっているとも思っていたし」
現にオシムさんは食事の席でも、示唆に富んだ言葉を紡ぎ出し続けていた。
阿部選手の今後のキャリアにプラスになるような話ばかりだった。多少白ワインを飲んだとて、発言の重み、説得力には変わりはなかった。
「最後まで緊張し通しだったけど、ホントよかった。企画してくれて、本当にありがとうございました」
そう言って、頭を下げる。
そしてあの、新潟の夜のような表情になる。めったに見せない、一線の向こう側。
「さて、一杯だけ飲もうかな。そろそろ、ホッとしてもいいでしょ」
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