学校で起きている、ふり返り疲れ
もう1学期末。学校は1学期の評価評定を出す時期だ。主体的に学習に取り組む態度の評価が登場して以降、おそらくどこの学校でも起きているのが、生徒と教師のふり返り疲れだ。
大量の「振り返りシート」に追われる生徒たち
休み時間、私が授業の準備でクラスに入ると、生徒はせっせと何かを書いている。よく見ると、各教科で出されている「振り返りシート」を書いているようだ。ひとつの教科ではなく、色んな教科がさまざまな形式の振り返りシートを出している。学期末になって、多くの教科が提出日を同じ時期に設定しているため、生徒は振り返りシートの仕上げ作業に追われているのだ。
生徒に「授業中書く時間はないの?」と聞くと、いちおう授業中に5分くらい時間が与えられるけど、到底書く時間が足りないので、持ち帰って書いて、次の時間に持ってくるということになっているらしい。
教科の中には、よりたくさん書いた方が評価が良くなる、という噂が広まって、振り返りの小さな枠にさらに小さい字でびっしりと授業で学習したことを書いている。
またある教科では、授業で学習したことをもとに、単元のまとめとして、追加して自分で調べたことを書くと評価がアップするというものもあるようだ。だから生徒たちも必死でその紙を埋めようと努力する。
振り返りシートに加えて、ノートのチェックやテストの振り返りが課されている教科もある。私が「ノートは何をみられるの?」と生徒に聞くと、板書に書かれていることに加えて、やはりここでも自分で気づいたことや学んだことを追加して書くと、主体的に学習する態度の評価にプラスされる、ということらしい。
私はノートチェックをしたことがない。なぜなら自分がノートをあんまり取っていなかったし、今も取っていないからだ。ノートは自分のために取るものだ。必要なことだけ書けば良いし、黒板を写す必要など全くない。第一、誰に見せるものでもなく、自分自身で見返すためのものだ。ノートを評価されるとなれば、もはや自分のためではなく、評価者である教師のために書くことになっているのではないか。書かされたノートや振り返りシートなど、ほぼ見返すことなどない。
さらに最近では、グーグルフォームやスプレッドシートで振り返りを書くようにしている教科もある。最早ここまでくると、誰のため、何のための振り返りなんだろうか?と疑問に思えてくる。
振り返りを可視化しなければという教師の強迫観念
「振り返りシート」を中心とした、学んだことを文章に書かせてチェックする、という評価が多くの教科で行われているのは、明らかに主体的に学びに取り組む態度の評価が始まってからだ。 表向きには、自らの学びを粘り強く、そして自己調整しながら進める態度を育て、それを評価しなければならない。これを評価してABCをつけるとなると、教師としては当然それを見取る必要が出てくる。生徒がどう学んでいるかを目で見えるようにするためには、それを文章で書かせるのが最適で最も公平だ、という判断になってしまう。それが、振り返りを可視化しなければならないという強迫観念につながっていると思う。
振り返りを書かせたからには、教師はそれを読んで評価しなければならないという気持ちに苛まれる。学期末には、職員室で大量の振り返りシートをチェックする教員が増える。たくさん書いたり、より多くのことを調べた方が評価が高くなる、という言説が広まった教科は、生徒の記述量がインフレのようにどんどん増えてしまい、書く方も見る方もしんどい状況になっている。
現場に委ねられる主体的に学習に取り組む態度の評価
そもそも、主体的に学習に取り組む態度は、ABCのような達成度的な評価を行うことが可能なのだろうか?「振り返りシート」を書かせることで、生徒の主体性を見取ることができるのだろうか?
主体的に学習に取り組む態度をどう評価するのかについて、現行の学習指導要領を見据えた中教審の教育課程部会 総則・評価特別部会では、このような議論がなされている。
振り返りによって主体的に学習に取り組む態度を評価する流れは、おそらくこの文章からきている。『単元や題材を通じたまとまりの中で、子供が学習の見通しを持って振り返る場面を適切に設定することが必要であること』…うーん、分かりづらい。
主体的に学習に取り組む態度も然り、大抵の場合、こういった上から降ってくる類のモノのスタンスとしていつも共通しているのは、「これからの教育において、ものすごく大事そうなことは確かなんだけれど、まだ具体的にそれが可能かはわからないから、とりあえず現場で工夫してやってみてよ」という暗黙のメッセージだ。そう、どうやるかは、完全に現場に委ねられているのだ。教員の主体性に任せている、といえば聞こえがいいが、できないことまでやらせようとするための常套手段になっている気がしてならない。任された我々も、そんなに大事なものなんだから、そんなのできないなんて口が裂けても言えない、という状況になる。この構造は、教育の至る所で見受けられる。
しかも、それが評価可能であるか?という問いは棚上げされて、どうやってそれを測るのか?という議論に話がすり替わっているように思う。これは教育の効果測定ではよくある話だ。教育学者のガート・ビースタは、学力はどのようにして測定が可能かという議論から、いつの間にか測定できるものを学力として定義してしまって、本来育むべき学力とは乖離しているのではないかと批判している。学力というものは目にも見えない、よくわからない力であるにも関わらず、ペーパーテストで測れるものだけを学力としている現状がある。
学力の話をなぞれば、主体的に学習に取り組む態度も、振り返りシートなどの生徒の記述物や、もしかするとこれから出てきそうな主体的に学ぶ心理尺度のようなものによって測定可能なものが主体的に学ぶ態度だ、ということになりかねない。
そして終わらない振り返り疲れ
そうは言っても、主体的に学習に取り組む態度の評価からは生徒も教師も逃れることはできない。中学校ではこれが高校入試の調査書に反映されるのだから必死だ。教師から少しでも良いと評価されるような振り返りが書けるように、生徒はじっと振り返りシートに向かう。せめて授業の中で、学びに向かっている時の生徒の姿こそ、われわれ教師が評価すべきなのに。授業のあとにまでちゃんと振り返ったかを生徒に求めるのは、求められる生徒もしんどいし、それを見取る教師もしんどい。