考えるな、書いてみよう。私が授業記録を書くことについての覚書。
夏休みが終わってしまった。私が自分に課した夏休みの宿題は、授業記録を書くことについて考えることだった。それは、「授業づくりネットワーク」という本に、横浜市公立小学校の玉置先生の授業記録を書く、という依頼を受けたことから始まった宿題だった。夏休みも終わってしまったので、その宿題を一旦終わらせるために本記事を書いてみる。
この授業記録を書くにあたって、どんな授業記録がよい記録なのか、この本のテーマである揃わない前提を、どうやって書けば伝えることができるのか。自分の授業記録を読み返したり、いろんな実践記録や本を読んだりして自分なりに考えた。
そして玉置先生の授業を見て記録を書き、それが本になった。自分の記録や他の人が書いた記録を読んで、さらにいろいろ考えた。
で、まず結論から言うと、授業記録を書くにあたって大事なことは、
考えるな、書いてみよう。
ということなんだ。と、考えた。考えるなと考えた、というのはどうにも変な感じだ。考えないで授業の記録を書くこということは、自分が考えてもいなかったことを考えるきっかけになる。「揃わない前提」の授業やクラスを考えるときに、考えないで書くことが考えるためにより重要になってくる。
…いやあ、うまく伝わならない。なぜなら実はこの記事も、あんまり考えずに書いているからだ笑。もう少し説明が必要かもしれない。こっから長くなりそうなので、時間がある人はお付き合い願いたい。
例えば、自分がどんな授業をやるか考えるときに、必ずその授業のねらいや目的を思い浮かべる。生徒に掴んでほしい事柄をゴールに据える。そして、そのゴールに生徒全員がフィットするように授業の道筋を考える。
ただ、その道筋は授業を考えた教師の道筋でしかない。これまでのよい授業とは、その教師が考えた道筋に、子どもたちがいかにハマって熱中させることができるかに重きを置かれていた。子どもたちが目的から外れるようなイレギュラーな回答や意見に対して、いかに反応、応答してゴールまで導くことができるか。その技芸の巧みさを伝え広め、そのうまさをどうにかして一般化することが、授業記録を書き、授業を研究することの大きな目的の一つだった。
だから、そういう授業の記録を書くにあたって必要なのは、その授業の目的と、その目的を到達させるまでの仕掛けや道筋、そして教師の仕掛けの提示から、仕掛けに対する子どもたちの反応と、教師の応答がどのように繰り返され、目的まで到達させることができたのか、あるいはできなかったのか。そういう記述が記録には必ず必要で、その記録をもとに、別の場所、別の子どもたちでも同じ建て付けの授業が成立するための要素を見つけ出すことが求められていた。授業づくりネットワークの言葉を借りれば、「再現可能性」という部分なんだと思う。
しかし、揃わない前提に立ったとき、教師が設定したねらいまでの道筋に子どもたちを上手に乗せていく授業(私はこれをジャングルクルーズ型の授業と呼んでいる)が、壮大なフィクションなんじゃないか、と疑われるようになってきた。教えたことがそのまま全ての子どもたちに伝わる、ということはほとんどあり得ない。一つのねらいや目的に、全員をフィットさせるという設定自体に無理がある、ということだ。子どもたちや我々教師にも、認知の特性やさまざまなバックグラウンドがある。バラバラで凸凹がある。
実は子どもたちは、授業という枠組みと目的に、絶えず抗い続けている。教師の目的には外れていることや、教師が想定もしていない、全く関係のないことが常に起こりづつけている。しかし、その揃わなさに目をつぶり、本時のねらいからまとめまでの、ひとつの大きな物語のなかに包摂させることによって、教室で起きている小さな物語が見えなくなってしまう。
ほんとうは、授業で起きている、授業とは関係のない全く無意味に見えるような物事に目を向けることで、教師も子どもたちも想定していないような、おもしろい気付きがあるはずだ。だから、授業を見るときには、自分が今見えていることとは全く違う現象が起きているかもしれない、と常に自分の見え方を疑う必要がある。例えば「この授業おもしろくないなあ」と思って見ているときの自分考える「おもしろさ」とは全く違う、授業者も想定していないところに、その授業のおもしろさや、授業をおもしろくするヒントが隠されているかもしれない。たぶん、見ても学びのない授業、というものはひとつもない。ジャングルクルーズみたいな授業でも、ハリボテのワニじゃなくて本物のワニが出るとか、乗組員が川に飛び込んでいくような瞬間が絶対起きている。
けれども、現実的にはそうはうまくいかない。教師としての自分が設定した目的や物語から自分自身で逃れることは、ものすごく難しいことだ。なぜなら、我々教師はどうしても授業で起きている全ての行為を、自分が受けてきたりやってきたりした授業の目的や教育の枠組みの中だけで捉えようとしてしまうからだ。要するに、ついつい自分のフィルターを通して「考えて」から言葉にしてしまうのだ。だから授業記録を書くときも、書くことを「考えて」言葉にしてから、それを文字にして「書く」ことになる。書きたいことを考えてから書いてしまう。考えたことを書いても、自分自身にとってはあまり意味のないものになってしまう。だってもうすでに考えたことなんだから。むしろ、自分の持っている授業の価値観や考えをただ強化してしまうだけの授業記録になってしまう。そして何より、書いていても、読んでもあんまり面白くない。
そこに気付かされたのは、自分が書いた玉置さんの授業記録の初稿を私の妻に読ませたときのことだ。最初の原稿は、けっこう苦労して書いたストップモーション記録(授業づくりネットワークの初代編集長、藤岡信勝さんが提唱した授業記録の方法)だった。妻はその授業記録をうんうん辛そうに唸りながら読み終わってひとこと、
「おもしろくない…。」
と言われたのだ。ど直球、どストレートなフィードバックだった。私なりに玉置先生の授業の大事なエッセンスを絞り込み、「再現可能性」と「伝達可能性」のバランスを考えに考え抜いて書いたストップモーション記録だった。参考文献も引用しつつ、「私だけが言ってる言葉じゃないんだぜ」と言わんばかりに誰かの言葉を借りて、起きていたことを読み解こうとした。
でも、自分で読み返しても確かに全く面白くなかった。というか、記録におもしろさなど必要ないと思っていたのかもしれない。なんで面白くないんだろう?と考えても、原因はよくわからなかった。
いったんその原稿をボツにして、一から書くことにした。授業で撮った写真と動画、授業のメモを見返しながら、玉置さんの授業の中で、自分が思う大事な部分を考えて考えて…。でも考えれば考えるほど書くことができなくなる。
授業記録を書くことがいよいよ億劫になってきた頃、私が勝手に師匠にしている人から1冊の本を教えてもらった。ピーター・エルボウ著『自分の「声」で書く技術――自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』(英治出版,2024)という本だった。その本では、フリーライティングという、10分間何も考えずにひたすら書く、というトレーニングが紹介されていた。「まずはこれを騙されたと思ってやってみろ!」と言わんばかりの書き振りだった。
私はそれを読んで、書いてある通りにタイマーを10分設定し、ただ手の動きに任せてひたすら書くというフリーライティングをやってみた。おもしろい。そのとき考えていることを文字にすれば、10分という時間のなかでも、こんなに言葉が積み重なっていくのか、という驚きがあった。何より、頭の中ではこんなにいろんなことを考えて、いろんな思考の断片が途切れなく、とめどなく流れ続けていることに気付かされる。
1週間くらいやってみると、本のタイトルにある「自己検閲を外す」という意味が少しわかったような気がした。私が普段何か文章を書こうとするとき、頭の中ではいろんなことを考えている。何かを書こうと思い浮かべては、一瞬で考えが他の何かに移り変わっていく。それをそのまま文字に起こしてみると、文字にしてはじめて「あ、自分ってこんなこと考えていたのか。」と気付かされることがあった。手を動かして書いたあとに、自分が無意識の中で考えていたことが目の前に文字になって現れるという感覚だ。書くことを考えて書くのとは、全く逆のことが実際に起きている。
普段、自分が何か文章を書くときには、無意識の中で思いついた言葉を無意識に自己検閲して、書こうとする言葉を考えて取捨選択して書いている。
その無意識の自己検閲こそ、自分の「声」を失わせる阻害要因になっていることに気付かされる。
フリーライティングで得た感触を、授業記録に書くことにも活かしてみたらどうだろう?そう考えて、私が玉置先生の学校に向かうところから、授業を見たあと学校を出るまでの出来事を、とくに構成やアウトラインも考えずに書き連ねてみることにした。「玉置先生、学校で怖そうな先生ランキングにランクインしそう」とか、「まずい!しまった!」とか、筆が滑り続けるような感覚だけで書いてみた。唯一意識したのは、「友達と飲みながら、自分が体験したこと喋って伝えるような語り口」だ。そして出来上がったのが、本に掲載された授業記録のベースである。同じ授業について書いたのに、最初に書いた記録とは全く違うものになった。
妻に読んでもらったら、「あ、読みやすいし面白い。」という反応。授業をやらない妻がおもしろいと言ったんだから、きっと誰にでも読める文章になったんだろうと勝手に解釈した。
もちろん、本に載ることを考えて、これは流石にまずい(笑)と思って自主規制した表現があったり、書いた文章を読んだあとに「ああ、自分はこういうことが言いたかったのか!」と気づいて追記したりした部分があった。私の主観的記録で終わるんじゃなく、玉置先生の授業に対する思いも伝えたいと考えて、最後は玉置先生と雑談した内容を追記して締め括った。
そして完成した文章は、自分が今まで書いてきた、読んできた授業記録とはちょっと毛色の違う文章になったと思う。おそらく読んだ人の中には、「え、この授業で子どもたちはどんな目的を達成したの?」とか「再現性などまるでないじゃん。」とか、「ふざけてて失礼でけしからん書き方だなあ。」と思った人もいるかもしれないと、今でもビクビクしている。
ただ、この授業記録は、他でもない私が、玉置さんと6年2組の子どもたちの教室に1日お邪魔して見たこと感じたことを書いた、その場その時でしか起こり得ない出来事と感情を書いた記録だ。再現性などあってたまるものか、と正直思う。だって「私」が見て「私」書いたものなんだからしょうがない。
(あ、一応断っておくが、玉置さんがやっていた授業のやり方自体は誰でも真似できる。追試可能な実践だ。また、「子どもに任せるなんて準備が大変で持続不可能なんじゃないか?」と評したブログを読んだ。想像自体を否定するつもりはないが、それは想像の範疇に過ぎない。子どもに任せる=下準備する教師が大変という考えは、教育という枠組みにどっぷり浸かっている証拠なんだと思う。玉置さんの子どもに任せるは、マジで任せている。働き方もマイルドな、十分に持続可能で無理のない実践だと思う。そこも本で伝えたかったが私の力量不足。)
そして、こんな授業記録を書いたのは、考えないで書いたことによる効用が大きいと私は思っている。考えずに書いているうちに、今まで考えてもいなかったことを考えたり、自分が思ってもいない結論に辿り着くことがある。だから授業記録を、自分の「声」に充実に、考えないで手に任せて書くということは、今まで自分も気づかなかった「声」を呼び込む、「声」に気づくことができるきっかけになり得る。
授業には目的がある。そして教師としての自分の、子どもにこうなってほしいとか、これを学んでほしいとか、決まりきった結論に向かうベクトルに抗えなくなる。そこに抗うことができる行為が、授業記録を書くことなんだと考えるようになった。ただ、私はまだまだ修行が足りない。考えないで書くためには、書き続けるしかない。
我々現場の教員は、教育学をやる必要はない。授業を教育の言葉で語る必要もない。もっと自分の言葉で、自分の感覚を頼りに、自分の授業を語るべきだと思っている。つらつら書き続けたら、もうすぐ5,000字いきそうなところだ。やっと言いたいことが言えたような気がする。なのでこの辺で。