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個別最適の「個」とはどこまでか?

 以前から「個別最適化」「個別最適な学び」という言葉にモヤモヤし続けている。

 そして最近、授業づくりネットワークの45号『「個別最適な学びと協働的な学び」を考える』が発売された。

 すごく充実した内容で、いろんなことを考えさせられた。授業づくりネットワークのすごいところは、これ一冊で様々な角度からひとつのテーマを眺めることができるところだ。「個別最適な学びと協働的な学び」をめぐって、それを提唱した政策立案者や学者、肯定派と否定派、そして私のようにモヤモヤしている現場の教師たちの意見が一冊で一望できる。

 いろんな立場の人の論考を読んで思ったこと。それは、個別最適をめぐる問題で大事なのは、一体どこまでを「個」として捉えようとしているか?ということなんだと思う。個別最適を語るときの個とか、政策立案者が捉えている個は、どうも人の皮一枚隔てた内側が個であって、そこに自分らしさや能力が内在していると考えている節がある。だから、個別最適な学びとはどんなものかといったときに、学習者がそれぞれ別々の入れ物に、知識や能力がモノや商品のように陳列されたところから、自分が欲しいものを選んで入れる。AIは学習者に足りない知識や能力を判定して、学習者に合った商品をオススメすることができる。そんな、学習者が欲しい知識や能力を延々と消費し続けるような、極めて貧弱な学びをイメージすることになる。そこに取ってつけたように「協働的な学び」を持ってきても、個々人が何をどれだけ消費してきたかをステータスとして比較し合い、序列化し合うだけの場ができあがる。
 本当は、個の学びと協働の学びなどはそんなにきっちり分けることはできない。先ほど紹介した授業づくりネットワークの本で、石川晋さんが国語の音読指導と個別最適な学びと協働的な学びの一体化について考えた論考がある。そこで指摘しているのは、『ほとんど全ての学習活動は、自分の身体を使う以上は個別的です』ということだ。この言葉にハッとした。教室で生徒が様々な方法で一緒に音読をするうちに、読みが明らかに変化していく。その様子を、個別の学びと協働の学びが一体化しているんだと捉えることはただの後付けに過ぎない。個と協働を分けて考える時点で、たちまち学びはぎこちなく、つまらないものになってしまうことを、音読指導で実際に起きていることから考えている。このときの「個」はどこまでか?と問われれば、明らかに身体を超えて他者と混ざり合う空間が存在する。その空間のなかで互いに依存し合いながら、自分というものがダイナミックに変化し合うような、境界の曖昧な「個」の姿がある。本来の授業で起きている学びは、そういうものなんだと思う。
 
 さらに、個別最適をめぐる議論で必ずと言っていいほどセットになっているのが、過剰な主体的学習者像だ。学習者が主体であって、学び方を学習者が主体的に選び、自律的に学習する。自分の学びの軌跡をメタに見ながら、自らの学びを自己調整する。これからの予測不可能な時代で生き抜く子どもたちを育てるためには、与える教育から学習者主体の教育にシフトする必要がある。・・・という言説によるものだ。
 もちろん、子どもが学び方を選ぶ、学習者主体の教育には概ね賛同できる。私も学習者主体の授業づくりを目指しているし、ひとりひとりの生徒が自ら学ぶ教室をつくりたいと思っている。しかし、先述したような極めてせまい「個」の捉え方と相まって、ものすごく過剰に個人に主体性と能力を求める、マッチョな主体的学習者像を求めすぎてはいないか?と思うことがある。学習指導要領が求めているような、生徒が主体的に学ぶことによって「生徒が身につけるべき資質・能力」も、そんな能力をすべて持った個人などいない、ましてやそんな全人的な人間像など、ほぼフィクションなのではないか?と思う。
 
 学校で子どもたちと生活していれば、社会にも蔓延するそういったせまい「個」の捉え方こそが、生きづらさを生んでいることにすぐに気がつく。ひとりひとりに選択肢を与えて表面上は自由を謳いながらも、個別最適という言葉に潜む、せまい「個」に内在する能力主義的な価値観が、一向に無くならない格差を助長し、さらに見えなくしてしまうのではないだろうか。
 むしろ、「個」とはどこまでが「個」なのか、どこまでが「私」なのかを他者と探り合いながら、「私」が拡張されていく感覚そのものが学びなんじゃないかと私は考えている。「私」が「あなた」になったり、「あなた」が「私」になったりすることが教室では当然起こりうる。そこにある自分と生徒の姿は、自立した、自律したマッチョな主体的学習者像としての「個」というよりは、互いに依存しあうことが当たり前の関係性のなかで、自分はどう応答するかを考え続ける「個」でありたいと願う。

 

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