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娘の名前の由来について

2020年11月18日14:24に第一子となる娘が誕生した。
誰かに「想いを込めた名前をつける」というのは初めての経験で、どういうプロセスや思考を経て名付けるに至ったのかを、忘れないように記しておく。

「名前」にまつわること

そもそも「名前」って、どんな意味を持ち得るのだろう?
という問いがまず出てくるが、それについてはそこまで追及をしていないので、なんか過去にいろんな文献とか書籍とか出てると思うので、そちらに譲るとする。いや、譲るもなにも立ちはだかる気もないのだが・・・

だがしかし、誰かに「名前をつける」ということについて、思い浮かぶことはいろいろある。
・表意文字と表音文字でなんか違うのか。
・「言霊」や「名は体を表す」という言葉があるが、表意文字的に規定された名前は人格に影響を与えるのだろうか。
・社会システムの中で役割や身分が名前に入ることがあるが、それについて。
・名前がないことによる影響(囚人とか番号で呼ぶよね)。
とか、なんとかそもそもを色々考えてしまう、素直にものを受け止められない極めて生きにくい性質をしているわけですが(笑)

「名付ける」という時に、個人的に記憶に残っているエピソードは漫画版『風の谷のナウシカ』です。
ジブリ映画のナウシカとは比べ物にならないほど設定や背景が細かく、メッセージ性も強くそこに至るまでのストーリーも練りこまれている、漫画版の方です。マイバイブルでしたが、名古屋時代の友人に貸して以来戻ってきておらず、ここ5年くらい読んでない気がします。はよ返せ。

みんな大好き巨神兵。
トルメキアに焼き尽くされたペジテ市の地下に眠っていた巨神兵は、神聖土鬼帝国の手によって人工子宮の状態で輸送中、ガンシップの砲撃で目を覚まし、秘石を持っていたナウシカを親と認識したのは、有識者の皆様は既にご存知のことと思います。
まるで赤子のように知能を持たず感情を露わにする巨神兵に、ナウシカはエフタル語で「無垢」を意味する「オーマ」という名を授けました。
すると、名を付けられた瞬間にオーマの知能レベルは急速に進化し「風の谷のナウシカの子オーマ!!」「オーマは光輪を帯びし調停者にして戦士なり」と、自身の人格が形成され、その中で存在意義や役割を発揮していくのです。

このエピソードが自分の中の「名前」という観念にどうつながっているのかはあまり言語化できていないところではありますが。
「名付ける」という動作をする時に、どうも私の中には、漫画で読んだこのエピソードがずっと頭の中にはあって。
その印象もあり、なんかしら人格とかに作用する何かがある気がするのです。

どうやって名前をつけるか?

妊娠が分かって「名前を考えよう!」となって、最初に行った議論は「そもそも、我々はどんな考え方で名前をつけるのか?」ということでした。
毎度毎度、家庭の中までもこの「そもそも」を考えねばならぬ三枝の面倒臭い性質にお付き合いしている妻には本当に尊敬の念しか湧かないわけですが。

名前をつけるにあたって、我々が使用するつもりの日本語という言語に3種類存在してました。「ひらがな」「片仮名」「漢字」です。それぞれの文字にはそれぞれの良さがあり、それをどう使うかによって、人に与える印象などは異なります。
我々はその中で「漢字」を選びました。
ひらがなの柔らかさは勿論認めつつも(片仮名は選択肢になかった)、我々は漢字の持つ表意文字という特徴が好きで、その漢字が成り立つにあたって持っている意味性や、人の頭に彷彿とさせるイメージや、また印象や雰囲気はとても好きでした。

ただ、あまりその表意文字としての意味性が強すぎる名前も嫌でした。
「美」とか「麗」とか、すごく素敵な漢字だと思うのですが、あまりに持っている意味性とイメージが強過ぎて、その意味性を産まれた時から背負わすのは、我々は「やりたくないよね」と思いました。
自分の人格は自身で醸成しながら、自分らしい人生を生きて欲しいと。

名前の検討は、まずここからスタートしました。
漢字を使用し、ある程度の意味性を持たせながら、でもその意味性が強くて人格まで縛ることはないような。
そんな絶妙なラインが見つかるのかは全くわからないですが、とりあえず漢字の候補ピックアップに着手しました。

どう漢字をピックアップしたか。

ここから、漢字のピックアップフェーズに入ります。

私が上記のようなコンセプトで漢字を選ぶ時に「ここから選びたい」と思ったものが2つあります。一つは、和歌。もう一つは、旧制第三高等学校の寮歌でした。

和歌は、まあみなさんもご存知だと思います。
万葉集から百人一首から、三十一文字の中にあの時代の人々は、自身の心象風景を周囲に満ちる大和の移りゆく四季の自然になぞらえて、表現をしていました。
文学的な詳細は分かりませんが、個人的にはあれほど艶やかな言葉で、自然と人間の情念を豊かに詠いあげた時代はないんじゃないかというくらい、和歌の表現は好きで(もしかしたら、自分に最も遠い表現手法だからかもしれない)。
自分の気に入っている和歌から、漢字が取れないかと探し始めました。

もう一つは旧制第三高等学校の寮歌。
「なんやねんそれ?」という方が殆どだと思いますが、旧制の第三高等学校とは私の出身校である京都大学の前身。その寮に住まい京都という街に育まれながら三高に通っていた学生が、紡ぎ出していった歌こそが寮歌になります。
応援団に所属していた大学時分、応援団という団体自身が母校に愛着を持つため、そこに根付くアイデンティティを深掘りするために、三高の寮歌を覚えさせられるのです。
夏合宿の夜練で腕立て等の筋トレをしながら、完璧に歌わないと終われないという地獄の精神トレーニングをしながら頭に叩き込まれた寮歌ですが、いつしか好きになってしまって、覚えなくて良い歌の歌詞まで覚えながら、京都を歌いながら逍遥するという変態的なことをしていたわけです。

三高の寮歌で有名なのは、加藤登紀子もカバーした『琵琶湖周航歌』ですが、日本三大寮歌とも称される『逍遥歌-紅もゆる-』があります。他の三大寮歌である旧制第一高校(東京大学の前身)『嗚呼玉杯に花うけて』や札幌農学校『都ぞ弥生』に比べて、大学に対する誇りや国を背負い変える気概ではなく、京都の歴史の中で育まれた雅な情景を前面に出しているのが特徴であり、個人的にもそれがすごく好きで。
他の寮歌にも、勿論そういう三高へのアイデンティティや国を変える気概を唱ったのもありますが、私が好きなのは、どちらかと逍遥歌よりの情景を表現したものでした。

ちなみに、好きな歌詞が記載してある歌とか、ちょっと挙げてみますので興味ある方は是非ご覧ください。
逍遥歌』『寮歌-春東山の-』『行春哀歌』『月見草』『友を憶う(歌詞が検索しきれず・・・)』
※全て"三高私説"のHPよりリンクを貼っております。自分が寮歌指導するときは、京大の図書館の地下から引っ張り出したり、このWebサイトを参考にしたりしていた。

チラッと拝見された方はお分かりになると思いますが、もう言葉の使い方が素晴らし過ぎるわけですよ。これが教養というものなのだと、言葉で表現で圧巻させられるわけですよ。
幾万語の言葉を尽しても、どれだけロジックに隙がない文章があろうと、うちに秘める情熱や情念を前に出さず、身の回りにある情景や歴史をゆたかに高らかに表現する中に、その想いを込める。
いや、ほんとに個人的に教養の極地はここに凝ったのだなと。

・・・つい熱くなり過ぎましたが。。。

この「情熱や情念を前に出さず」「情景や歴史などを表現する」という構造。
「人格を縛るくらいの意味性は込めない」レベルで、「漢字自身の持つ意味性やイメージは大切にしたい」という、名付けに対する感覚。
私は、割と共通するものがあると思って、手帳にいつも忍ばせてある三高寮歌の歌詞が書かれた紙を久しぶりに取り出して、そこから漢字を挙げてみたのでした。

そんな経緯で決まった名前

そんな感じで、私と嫁がそれぞれ漢字をピックアップして、それらの漢字を全部漢和辞典で調べ上げて、成り立ちや意味も含めてどうしても使いたい漢字を絞り。
その組み合わせを考えていたら画数やら読み方やらで「うわ、どれもあかんわ」となったり(苗字が「さいぐさ」なので、名前の最初に「さ」が来るのは微妙とか)。

てんやわんや経て、候補を3つくらいに絞って「産まれた顔を見て決めようぜ!」として、顔を見てようやく決めた名前は・・・

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に、なりました。

最初の「和」という字。
漢和辞典から抜粋すると、成り立ちからして以下の意味があるそうです。

口が形を表し、禾は稲の穂で、やわらかくまるみをおびた気持ちを持っている字である。和は、声を合わせてうたうことを表すとともに、やわらぐ、なごやかの意味になる。また、禾の音は加と通じて、加えるという意味を持つから、和は一つの声に対して、さらに声が加わることで、人の声に合わせる意味を表すと解する。
(中略)竹笛を吹いて、音楽を合わせ、舞などをリードする。ここから、ととのえる、調和する意となる。

う〜ん、いい意味ですなあ。
候補は何個かあったのですが、なんか丸々としてのんびりした表情だったので、妻が「これでしょ!」ということで、産まれて病院に行った時には既に99.9%くらい決まってました。なるほど。

ちなみに、書いてて思い出しのですが、中高の私の出身校である久留米大学附設のモットーは「和而不同」でした。論語の一節「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」から来ており「すぐれた人物は協調はするが、主体性を失わず、むやみに同調したりしない。つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはない」という意味です(参考リンク)。
自身の一つのアイデンティティ(面倒くささのルーツともいう)にも使われている漢字だったなあということに、ふと行き着きました。

そして「花」という字。
漢和辞典的にはイメージそのまま、草木が変化した「はな」の状態です。
日本人は何故こんなにも花が好きなんでしょうというくらい、和歌の中にも出てくる「花」。「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん」「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」とかは個人的に好きです。無限に和歌はありますね。

あと、先だって紹介した私の好きな寮歌にも、花は多く登場します。学帽マントに高下駄で、花の季節に京の都を闊歩している様子が、鮮やかにイメージできます。

「紅もゆる岡の花 早緑匂ふ岸の色 都の花に嘯けば 月こそかゝれ吉田山」
「嗚呼故里よ野よ花よ ここにももゆる六百の 光も胸も春の戸に 嘯き見ずや古都の月」
「見よ洛陽の花霞 櫻の下の男の子等が 今逍遙に月白く 静かに照れり吉田山」
                        -『逍遥歌』より引用
「春、東山の花に酔ひ 秋、清谷の香に迷ふ 古都よ醒めよと暁鐘を 握りて立てる神陵兒 響けよ、世を醒ませよ自由の鐘よ 守れよ、世に誇れよ自由の鐘を」
「東に聳ゆる比叡の嶽 西に流るゝ加茂の水 嶽と水との氣の凝りて 爛漫咲ける花を見よ 歌へよ、世に誇れよ自由の花を 守れよ朝日に照る自由の花を」
                      -『寮歌-春東山の-』より引用

いやあ、いい詞だなあほんと。
もう単なる三枝の三高寮歌への偏愛を語るコラムになってきましたw
ああもう、なんか偏愛ついでに『都ぞ弥生』と『嗚呼玉杯に花うけて』の花が出てくる一説も紹介します!そっちも好きやねん!

「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う宴遊の莚 尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮れては移ろう色の 夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想を載せて 星影冴かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ」
「牧場の若草陽炎燃えて 森には桂の新緑萌し 雲ゆく雲雀に延齢草の 真白の花影さゆらぎて立つ 今こそ溢れぬ清和の光 小河の潯をさまよい行けば 美しからずや咲く水芭蕉 春の日のこの北の国幸多し」
                        -『都ぞ弥生』より引用
「芙蓉の雪の精をとり 芳野の花の華を奪い 清き心の益良雄が 剣と筆とをとり持ちて 一たび起たば何事か 人世の偉業成らざらん」
「花咲き花はうつろいて 露おき露のひるがごと 星霜移り人は去り 舵とる舟師は変るとも 我のる船は常えに 理想の自治に進むなり」
                     -『嗚呼玉杯に花うけて』より引用

こんな想いで、第一子の娘には「和花(のどか)」という名前を付けました。
ちなみになかなか初見で読めないですが「和」で「のどか」と読むので、それに一文字「花」を付け加えた感じになります。

いつか、小学校で「名前の由来を両親に聞いてきてくださーい」と言われた時に、この情報量の中からどう遡ってどう説明するか、今から冷や冷やしてます。1時間以上かかるんじゃないだろうか。

是非「のんちゃん」に会いにきてくださいねー!

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