ショートショートその65『千駄ヶ谷博士、輝く未来を創る』/報われない発明家・千駄ヶ谷博士が、かつてない情熱で研究に没頭している。その熱気に徐々に周囲は巻き込まれていき……
古びた工学部の研究棟の最上階、一番奥の研究室。
夜も更けた頃、青白い蛍光灯の下で一人の初老の男が実験を続けていた。
千駄ヶ谷博士である。
机の上に散らばる研究論文は、どれも査読者からの厳しい評価が朱書きされている。
特許申請の書類も、却下の印が並ぶ。
廊下を歩く若い研究者たちは、千駄ヶ谷博士の研究室の前を通るとき、決まって目配せを交わす。
誰も振り返らない。
六十八年の人生で、博士は一度も商業的な成功を収めたことがなかった。
その日も、いつものように誰にも声をかけられることなく夜が更けていった。
研究室の隅には三十年前に失敗した人型ロボットの設計図が、埃を被って眠っている。
食堂では、いつも一人だった。
誰かが近づいてくると、無意識に背を丸める。
コーヒーを啜りながら、ノートに走り書きを続ける。
メモの端には、かすかに寂しげな表情を浮かべる博士自身の似顔絵が、無意識に描かれている。
そして、ある日、博士の目に異変が起きた。
これまでにない輝きを放ち始めたのだ。
まるで、若かりし日の情熱を取り戻したかのように。
「これで未来が輝く」
うわ言のようにその言葉を繰り返し、白髪は乱れ、ペンを握る手が震えている。
机の上には新しい設計図が広げられ、次々と書き加えられていく。
それに最初に気づいたのは、博士と同じ年月、この大学で働いている掃除のおばさんだった。
いつもは視線を合わせようとしない博士が、今日は違う。
夢中で図面を描く横顔に、何か懐かしいものを見出したのか、足を止めた。
次に気づいたのは、学生たちだ。
これまで敬遠していた研究室の前で、立ち止まる者が出てきた。
窓越しに見える博士の姿に、知らず知らずのうちに引き寄せられていく。
「これで未来が輝く」という言葉と、かつて見たことのない博士の情熱から、学生たちの間で「人類の未来を左右する発明なのではないか?」という声が交わされるようになった。
地方新聞の記者、久美子が取材に訪れたのは、そんな噂を聞きつけてからだった。
彼女は、マスメディアとは無縁だった博士の研究室の敷居をまたいだ最初の記者となった。
ノートを広げ、博士の研究に耳を傾ける。
途中、何度も目を輝かせ、熱心にメモを取る。
帰り際、彼女は研究室の前で立ち止まり、振り返った。
そこには、誰にも見せたことのない設計図を必死に描き続ける博士の姿があった。
翌日から、久美子は取材という名目で毎日のように研究室を訪れるようになる。
記事の締め切りさえ後回しにして、夜遅くまで博士の研究を手伝った。
コーヒーを入れ、部品を整理し、時には徹夜も厭わない。
新聞社の上司から叱責を受けても、彼女は博士の傍らから離れようとしなかった。
博士の横顔を見つめる久美子の瞳には、取材対象を超えた何かが宿っていた。
彼女は博士の着古したラボコートをこっそり新しいものに取り替え、昼食時には手作りのお弁当を差し入れた。
研究室の埃を払い、枯れた観葉植物を新しいものに替える。
少しずつ、研究室に温かな空気が満ちていった。
工学部の他の研究室から、そっと部品が届けられるようになる。
学生たちが休み時間に手伝いを申し出る。
久美子の熱のこもった記事は大きな反響を呼び、大学全体がこの謎めいたプロジェクトに注目し始めた。
完成に近づくにつれ、巨大な人型が姿を現し始める。
女性を思わせるそのフォルムは、どことなく久美子に似ている気がする。
「これで未来が輝く」という博士の言葉と、その自分に似ているフォルムとで、久美子の気持ちはさらに高揚した。
この発明が、博士の人生を大きく変えるに違いないと信じていた。
彼女の心の中で、取材という建前は、もはや意味をなさなくなっていた。
ついに、完成発表の日を迎えた。
大学講堂には、これまでにない数の人々が集まっていた。
壇上には巨大な人型ロボットが、白い布に覆われて佇んでいる。
新調したスーツでカメラを構える久美子は、記者席で少し紅潮気味でそれを見つめている。
博士の最後の3日間の追い込みには、さすがの久美子もその気魄に押され、研究室に入れていない。
なので、ロボットの仕上がりを目にしておらず、誰よりもその完成形を楽しみにしていた。
千駄ヶ谷博士が壇上に立つ。
これまでの人生で、これほど多くの視線を集めたことはなかった。
白い布が取り除かれ、かろうじて女性だとわかるフォルムのロボットが姿を現す。
そして、博士は生涯で最も重要な言葉を口にした。
「これは孤独な自分を応援してくれるロボットです」
ロボットが無機質な声を発した。
「センダガヤハカセ、ガンバッテ」
深い静寂が広がる。
久美子の手からこぼれ落ちたカメラが床に衝突した音だけが、講堂に鳴り響いた。
【糸冬】