ショートショートその60『メンタルスタントマン』/依頼者の緊張やプレッシャーを代わりに引き受ける職業・メンタルスタントマン。それには厳しい規定があり……
【メンタルスタントマン職業規定】
◎第1章 定義
第1条 メンタルスタントマンとは
1. 依頼者の精神的負担を一時的に代行する専門職である
2. 国家資格「感情代行士」の所持が必須
3. 精神科医の診断で「他人の不安を受け入れても平気な体質」と認定された者に限る
第2条 業務範囲
1. 緊張、不安、プレッシャーなどのネガティブな感情の代行
2. 感情の引き受けは1回につき最大4時間まで
3. 依頼者1人につき月間上限20時間まで
4. 同時に受けられる依頼は1件のみ
◎第2章 禁止事項
第3条 業務制限
1. 恋愛感情の代行は禁止(誤って受け取った場合は即座に報告)
2. 重度の精神疾患に関する感情は代行不可
3. 複数人の感情を同時に引き受けることは禁止
4. アルコール摂取後12時間は業務禁止
◎第4条 依頼制限
1. 同一の状況での連続依頼は3回まで
2. 結婚式での緊張は新郎新婦のみ受付可
3. 入学試験、資格試験での利用は禁止
4. お見合いでの利用は双方の同意が必要
第3章 安全管理
◎第5条 健康管理
1. 週に2日以上の休養が必須
2. 月1回のメンタルチェックを受診
3. 引き受けた感情は24時間以内に専門施設で解放
4. ストレス数値が基準値を超えた場合は即座に休業
◎第6条 装備品
1. 感情測定器の常時携帯
2. 緊急時用のストレス解消アイテム
3. 感情漏洩防止用の特殊マスク
4. 依頼者との契約書・同意書
第4章 料金体系
◎第7条 基本料金
1. 通常の緊張・不安:30分 5,000円
2. 重要な場面での緊張:30分 8,000円
3. 深夜割増(22時〜翌6時):通常料金の1.5倍
4. キャンセル料:前日50%、当日100%
◎第8条 特殊料金
1. 結婚式パック:式全体 50,000円
2. プレゼン特別枠:60分 15,000円
3. お見合いセット(双方):90分 25,000円
4. 緊急対応料金:通常の1.8倍
◎第5章 その他規定
第9条 特記事項
1. スタントマン自身の感情は常にニュートラルに保つ
2. 依頼者の秘密保持義務
3. 代行記録の保管(5年間)
4. 年1回の適性検査受診
第10条 禁止される副業
1. 俳優・芸能人
2. カウンセラー・セラピスト
3. 営業職
4. 結婚相談所スタッフ
◎付則:緊急時対応
第11条 緊急措置
1. 感情の暴走時は専用施設に緊急搬送
2. 誤った感情を受け取った場合の対処手順
3. 依頼者との感情の同期が切れた場合の措置
4. 天災発生時の対応プロトコル
第12条 研修制度
1. 新人は6ヶ月間の研修が必須
2. 月1回の技術向上講習の受講
3. 年2回の実地訓練への参加
4. ベテランスタントマンによるメンタリング制度
…
………
……………
「感情測定、安定値です。予定通り、あと10分で完了します」
葛城裕一は感情漏洩防止マスクを軽く調整しながら、目の前の新郎に声をかけた。
結婚式当日の緊張代行。
メンタルスタントマンとして最もオーソドックスな仕事の一つだ。
「規定通り、3時間50分での代行となります。超過の心配はありません」
几帳面に時間を管理する葛城の仕事ぶりは、スタントマン協会でも評判になっていた。
新人研修でも、彼の記録映像が教材として使用されるほどだ。
「お前ほど規定を完璧に守るスタントマンは見たことがないよ」
昼休憩、先輩の鹿島源一が苦笑しながら声をかけてきた。
「でもね、その几帳面さが心配なんだ。優秀すぎる人間は、時として思わぬ落とし穴にはまることがある」
葛城は首を傾げた。その時、受付から連絡が入る。
「葛城様、新規のお客様がお見えです」
応接室に通された女性は、両手でクリアファイルを強く握りしめていた。
自己紹介の声も、わずかに震えている。
「城之内結衣と申します。大和システムの新入社員です」
案内された椅子に座りながら、彼女は何度も深呼吸を繰り返していた。
明らかな緊張状態だ。
葛城は普段通り、規定の説明から始めようとした。
「本日の感情代行のご相談ですが、一回の上限は4時間となっており──」
「すみません、その前に資料をご覧いただけませんか」
差し出されたクリアファイルには、企業統合プロジェクトの文字が躍っている。
葛城は思わず姿勢を正した。
大和システムといえば、業界最大手。
その統合プロジェクトとなれば、ただ事ではない。
「来週の火曜日、役員会でのプレゼンを任されました。準備時間から本番まで、6時間ほど...」
葛城は一瞬、言葉を飲み込んだ。
規定上限の4時間を超える依頼。
即座に断るべき案件だ。
しかし、城之内の声が続く。
「新入社員の私に話が回ってきたのは、きっと何かの間違いだと思います。でも、チャンスを頂いた以上...」
資料に目を通しながら、葛城は考えていた。
確かに重要な案件だ。
このプレゼンの成否が、会社の未来を左右するかもしれない。
彼女の手が震えているのも無理はない。
「申し訳ありませんが、規定では...」
断ろうとした瞬間、城之内が深々と頭を下げた。
「どうかお願いします。人生で一番大切なプレゼンなんです」
その時、葛城の頭に一つのアイデアが浮かんだ。
2回に分ければ、形式上は規定内に収まる。
休憩を挟んで別の予約として処理すれば...。
「鹿島さん、相談があります」
昼休憩、葛城は鹿島に考えを打ち明けた。
「規定の抜け道を探すのは危険だよ」
鹿島は珍しく厳しい表情で答えた。
「我々の仕事は、他人の感情を扱う。その規定には、必ず意味がある」
分かっている。
分かっているはずだった。
でも、城之内の切実な表情が、頭から離れない。
応接室に戻った葛城の口から、意外な言葉が漏れていた。
「分かりました。必ず成功させます」
こうして、葛城の規定違反は始まった。
城之内のプレゼンは完璧だった。
「次期システムの構想について、素晴らしい提案をありがとう」
役員たちから賞賛の声が上がる中、葛城は予定通り6時間の代行を完了していた。
休憩を挟んで2回に分けた処理は、意外とスムーズだった。
「葛城さんのおかげです。本当にありがとうございました」
安堵の表情を浮かべる城之内を見送りながら、葛城は小さな達成感を覚えていた。
規定を少しだけ、ほんの少しだけ曲げただけ。
結果はこんなにも良かったのだ。
その成功が、思わぬ波紋を呼ぶことになる。
「あの、葛城さんでしたら、5時間でも対応していただけるって聞いたのですが」
「重要な商談があって、準備から終了まで、できれば7時間ほど...」
問い合わせが増えていく。
最初は丁寧に断っていた葛城だったが、次第に例外を作るようになっていった。
大切な案件ばかり。
みな切実な様子で、断る理由が見つけられない。
そんなある日、違和感を覚え始めた。
「あれ?」
企業の決算報告の代行中、
突然、プレゼンの緊張感が押し寄せる。
別の依頼者の感情が、どこかで繋がってしまっているような感覚。
制御が難しい。
「大丈夫です。問題ありません」
鹿島の心配そうな視線にも、強がりの笑顔を返す。
だが、違和感は日に日に強くなっていく。
結婚式でのスピーチ代行中に、商談の焦りが混ざり始める。
入学式の緊張を預かっているはずが、株主総会の重圧が蘇ってくる。
感情の整理が、少しずつ難しくなっていた。
「葛城君、顔色が悪いぞ」
「大丈夫です。ちょっと疲れが...」
その日の午後、重役会議の代行中だった。
突然、全ての感情が一斉に押し寄せてきた。
結婚式、商談、入学式、株主総会──これまで預かった全ての不安と緊張が、一度に溢れ出す。
「く...っ」
制御不能。
依頼者の重役が突然、号泣を始めた。
会議室が騒然となる。
「葛城くん!」
鹿島の声が聞こえる。
だが、もう手遅れだった。
感情の波に飲まれ、葛城は崩れ落ちた。
意識が遠のく中、規定の重みを、痛感していた。
「感情の伝染が止まりません!」
テレビから流れる切迫したアナウンサーの声で、葛城は目を覚ました。
白い病室のベッドだった。
目覚めた葛城に、鹿島が朝刊を見せる。
一面に躍る見出し——『謎の集団号泣、企業から街へ拡大』
「重役会議の出席者全員が突然泣き始め、その後社内や取引先にまで...」
テレビの緊急ニュースが続々と新しい情報を伝えていた。
突然泣き出す人、緊張で固まる人、プレッシャーに押しつぶされる人。
症状は様々だが、どれも見覚えのある感情だった。
「私のせいだ...」
「ああ。でもね、葛城くん。君の感情代行には特徴があった」
鹿島は病室の窓を開けながら、静かに語り始める。
「君は感情を消し去るんじゃない。共有していたんだ。だから規定を破っても、上手くいっているように見えた」
「共有...?」
「そう。依頼者の感情を、一時的に預かるんじゃなく、一緒に抱えていた。でも、溜めすぎた感情が暴走して、その『共有』が制御不能になった」
廊下では白衣の専門家たちが慌ただしく行き来している。
感情の連鎖を止めようと、対策が続けられていた。
「だったら、私が全部引き受ければ...」
「それは無理だ」
鹿島は珍しく強い口調で遮った。
「でもね」
彼は新聞の別の記事を指さした。
そこには小さく、こんな話が載っていた。
重役会議の号泣騒動。
でも、涙を流しながら、むしろ冷静な判断ができた役員がいたという。
自分の不安と向き合えたからこそ、的確な意見を言えた——。
「感情は、消すものじゃないんだ」
葛城は黙って記事を読み返す。
そうだ。彼が預かった感情は、本来誰かが抱えるべきもの。
否定するのではなく、受け入れるべきもの。
「鹿島さん、退院を許可してください」
「おいおい、まだ早いって」
「大丈夫です。今度は...感情を預かるんじゃなく、向き合い方を伝えに行きます」
点滴を外し、葛城は立ち上がった。
まだ完全には回復していない。
でも、今の自分にしかできない仕事がある。
「待てよ!」
鹿島の制止の声が響く。
だが、葛城は既に廊下を走り出していた。
大和システムのビルに着いた時、そこは既に涙の海と化していた。
受付では号泣する女性社員。
廊下では突然立ち止まって動けなくなる営業マン。
会議室では集団でため息をつく幹部たち。
その中で、ただ一人、必死にパソコンに向かう人影があった。
「城之内さん...?」
彼女は涙を流しながらも、黙々とキーボードを叩いていた。
「あ、葛城さん...」
顔を上げた城之内の目は、確かに潤んでいる。
けれど、その眼差しは以前より強かった。
「泣きながらでも、仕事はできるんです。むしろ...緊張があるから、より慎重に確認できて」
その言葉に、葛城は飛び上がりそうになった。
そうだ。感情を無くすことが答えじゃない。
「城之内さん、付き合ってください!」
二人は街へ飛び出した。
最初の目的地は、先日の結婚式場。
今日も式が行われているはずが、会場は阿鼻叫喚。
花嫁も、花婿も、参列者も全員が号泣している。
「私、幸せすぎて...いや、違う。なんで泣いてるんだろ...」
花嫁の混乱した言葉に、城之内が駆け寄る。
「その涙、きっとあなた自身のものですよ。幸せも、不安も、全部」
続いて、商談先の会議室。
固まったままの営業マンに、城之内は自分の体験を語った。
プレゼンの緊張、それでも前に進んだ話を。
入学式会場では、動けなくなった父親に、葛城自身の言葉で語りかける。
「完璧な父親である必要なんてありません。不安なお父さんでも、いいんです」
一つ一つの場所で、感情の連鎖が少しずつ解けていく。
最後は、あの重役会議の役員のもとへ。
「ああ、君か」
意外にも、役員は普段通りの態度だった。
「気づいたんだよ。不安を感じる自分にも、意味があるってね。慎重に物事を判断できる。そのための感情なんだ」
その言葉が、街中に広がっていく。
徐々に、人々の涙が止まっていく。
でも、代わりに葛城の頭の中が限界を迎えていた。
依頼者たちの感情との向き合い方、乗り越え方、全てが彼の中に入ってくる。
他人の成長まで、共有してしまうなんて。
「葛城さん、顔色が...」
心配そうに覗き込む城之内の表情が、段々とぼやけていく。
感情の連鎖は収まったけれど、今度は別の意味で限界が近づいていた。
事態収束から一週間後の金曜日。
葛城は黙々と業務日誌を書いていた。
「一件目、入学式の緊張、30分。二件目、就職面接の不安、2時間...」
規定通りの仕事に戻った日々。
でも、時々、あの日の記憶が蘇る。
街中で出会った人々の感情との向き合い方。
それぞれの乗り越え方。全てが頭の中に残っている。
「葛城さん、今日も お疲れ様でした」
帰り際、城之内が顔を出した。
今では立派なプロジェクトリーダーになっている。
「ちゃんと自分の緊張と付き合ってますよ」
彼女の笑顔に軽く手を振り返し、葛城は駅へ向かった。
終電間際の車内。いつもより疲れが重たく感じる。
思えば、他人の感情との向き合い方を山ほど知ってしまった彼は、今や誰よりも繊細に感情を感じ取ってしまう。
ガタンゴトン。
電車が軋む音すら、何かの感情みたいに響いてくる。
(やっぱり、規定って大事だよね...)
深夜の駅のホームに降り立った時、彼は思わずつぶやいていた。
「誰か私にもスタントマンになってください!」
ホームの端っこで居眠りしていた駅員が、飛び上がった。
【糸冬】